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2017年04月 アーカイブ

2012.04.27

トランプ

とっても暇な大学生の夜。
小松君とトランプ。トランプなど普段したことないが、暇な大学生の夜はトランプで遊べとささやく。

先にあがるのはいつもこっち。
なぜか。
小松君は計算してない?
哲学を学ぶ小松君はあまり計算を好まない。
というか計算とかは基本的に放棄していた。
聞いてみるとやはり小松君は数字を眺めていただけ。
ゲームであがっていても手元のカードの計算をしないのでゲームにならない。なのでこっちが勝ってしまう。
そりゃそうだ。
負けようもない。
トランプする事になって、ゲームは始めるのに、そのゲームにはどうして参加しないのか。
一応楽しそうにカードを引いたりしてる。
僕のためを思ってのトランプごっこなのか。僕はそんなに暇そうなのか。暇だけど。
まさかお互いのカードのやり取りを通じて、お互いの優しい気持ちを交換する儀式がトランプゲームだと思ってるわけではあるまい。
相手が相手をしてくれないゲームほどつまらないものはない。
お人形さんにカードを配って持たせて対戦しているような不毛なゲーム。まだお人形さんだったらしょうがないから諦めもつくし、ほんの少しクリエイティブな感じもある。
でも目の前にいるのは小松君。しかも身長187cmもある大きな人。
神経衰弱にゲームをチェンジ。
とっても暇な大学生の夜。
ゲームスタート!
小松君に加え僕も衰弱。全然盛り上がらない。つまらない、というかつらい。
神経衰弱の神経が衰弱する夜。
このゲームは集中力や持続力を必要とする。うだうだしている夜の暇な大学生には持ち合わせていない気力が必要。
もっと直感!インスピレーション!その場的!なゲームでなければ盛り上がる事ができない。
そこで神経が衰弱しない神経衰弱を考えた。まず1枚、2枚とめくる。ここまでは同じ。
揃っても揃わなくてもひいた後に全部をかき混ぜる。そしてめくる。そして混ぜる。
直感とインスピレーションと霊感がたよりの神経衰弱ならぬ神経覚醒!
カードに手をかざし、カードが発する気を受け止め、揃いのカードを引き当てる。
一期一会の出会いを引き寄せる。
これは盛り上がった。計算や集中力はいらない。テンションあげてそろいのカードをめくるのみ。
ただ持久力は必要。けっこう終わらない。いや全然終わらない。疲れた。もういやだ。真剣衰弱。
ゲームにはルールがあり、そのフィールドで遊ばないとゲームにならない。
ただ、自分や相手があってのゲーム。楽しめるフィールドが無い場合は作れば良い、ということになる。
子供の頃の遊びはほとんどこんな感じの楽しさを含んでいた。その場でルールを決めて、未完成なルールの中で楽しさを探す。
独特な空気感を持った遊びの時間だったことを思い出す。
必要なものはクリエイティブな考えだろうか。
それとも、とっても暇な大学生の衰弱した夜だろうか。

2012.04.09

オエダラ箕

3月28日にいったん戻りまた東北。3月30日〜4月2日まで秋田へ。
「農閑工芸」の研究のためオエダラ箕(み)の調査。今回は研究室の学生、ラリとハルちゃんの2人と共に。
秋田市の東側に位置する大平地区。
市内から車で移動する。緩やかな平野が緩やかに山に近づいていく。まだまだ雪の残る田んぼ。
雪が溶けて土の見える田んぼには数十羽の白鳥が旅の前の食事にいそがしい。
白鳥と言えば湖という薄っぺらいイメージしか僕にはなく、白鳥も土を掘ってえさを食べるんだという当たり前の事に感心。
数十羽になる白鳥のグループはいたるところで目についた。
川が流れ田んぼの周りには里山が控えている。
このような場所で箕作りが盛んに行なわれていた事に納得する。
里山から調達した素材を有効活用して作られるオエダラ箕の制作者を訪ねた。
この土地で作られるオエダラ箕ひとつに使われる材料は、イタヤカエデ、フジ、ネマガリダケ、カバザクラ。
イタヤカエデは木部を薄く割いて使用する。フジは樹皮から薄い繊維を取り出して使用する。
イタヤカエデとフジを主として箕は編み込まれていく。
箕作り以外では様々な種類の樹皮も素材となる。スギ、キハダ、サワグルミ、ヤマブドウ。
ヤマウルシはイタヤカエデと同様に薄く割かれて使われる。ウルシの木独特の黄色い肌が美しい。
2日間制作者の所にお邪魔して調査。そして制作者のご指導のもと、みんなでイタヤカエデとサルナシを素材に籠の制作をした。大変貴重な時間となった。
百聞は一見に如かず。
やはり実際に制作される場からの情報量は圧倒的に多い。
また詳細はいつかここに書きます。

2012.04.06

たんぼの造形

3月26日27日28日と東北へ。
またひとりぶらり旅。
初日は石巻、女川、松島などを訪ねる。改めて被害の大きさを知る。次の日は仙台、名取市等を通って会津へ。会津では大熊町から避難している仮設住宅にてワークショップに参加。
会津若松の町を歩いてカゴの置いてある商店に入る。
佐渡の箒を見つけ手に取る。ワラで作られた手のひらサイズのかわいらしい箒。もともと物を所有することに興味がなく、物を集める趣味のない僕の唯一のコレクションである箒なので購入。これはしかたがない。
店の奥、ほこりをかぶった木杓子が目にとまる。ブナの木でできた力強い造形。檜枝岐で作られた木杓子かと思い店主に尋ねるとその通り。
木杓子は木でつくられるおたまのこと。
現在はブナの木を切る事ができなくなり作られなくなった。かれこれ15年ほど前に檜枝岐に行ったときに購入して使っている。その後実際に作る現場を見てみたくなり色んな所に問い合わせるも、制作の現場を見る事はかなわなかった。
材料を調達できないのだからしょうがない。
硬いブナの木を湯で煮て、センで削る面白い作り方。その作り方から力強く引き締まった木杓子が生まれる。
田んぼのような造形。
木の器を作るときによく考える。「田んぼのような」という言葉を意識したのは、岩手県の雫石を訪ね、木杓子の制作を調査した時のこと。
木杓子は、原材料となる木のある山に小屋掛けして、木を倒し、木を割り、削ってつくられていた事もあった。それぞれの地方にある木を使うので、クリ、ブナ、ナラ、ホウ等様々な種類で作られている。見学に行った雫石の工房では、ホウの木が使われていた。ブナ、クリに比べてホウの木はやわらかく軽い。そのせいか形も他の地で作られたものに比べ、肉付きが良くゆったりとしている。
玉切りにした丸太をナタで割り、チョウナ、マエカンナ(槍鉋のような形)、カンナ、小刀で成形していく。5種類のシンプルな道具で形作られた木杓子は、おおらかな佇まいをしている。
木を割るところから完成まで、無駄のない仕事を見せてもらい完成した木杓子をいただいた。
木杓子はかしこまった使い方をしない道具である。
良い道具とは?
これも良く考える事である。身近な篦で考えてみる。
漆の仕事は様々な道具を使うが、まず篦(ヘラ)を作れなければ仕事にならない。
桶から漆を取る事もできないし混ぜる事もできない。特に下地仕事では、篦の出来具合が仕事の質に大きく左右する。篦を作るには塗師屋小刀(ヌシヤ)と呼ばれるドスのような刃物を仕立てなければならない。刃物を研ぐには砥石を仕立て、、、、と続けていくと長くなるので、篦の話。
篦は一般的にヒノキでつくる。他にマユミ、シシャ、ホウ、モミジ、ウツギ等も使う事もある。珍しいものではクジラのひげもある。
まずヒノキを割って板を作り、カンナ、ヌシヤで仕上げていく。直線で構成された篦の形はとっても簡素で潔い。
道具は、仕事のためのものであるから簡単に作れる事が望ましい。簡単ということは作るのに時間がかからないこと。
簡単なばかりで使い物にならなければ使えない物になるので、やっぱり一番大切なのはやはり道具としてしっかりと仕事に仕え、使いやすいということ。
しかも長持ちするとうれしい。
篦の場合、使いやすい、作りやすい、直しやすい、長持ちするということが問われる。
篦は削りながら形を整え使用していく事もあり、条件に合う材料としてヒノキが選ばれた。そして、ヒノキの中でも天然林で伐採された目の細かな物が良い。立ち木の状態で人の目の辺りのものが良いとかも言われる。
それともうひとつ。
これは個人差が出てくるが、そこそこ美しいものが良い。別に眺める物ではないので美しさが必要ではない。ただ、自分の近くに置かれたもの、手にしながら使う物はそれなりの形をしていて欲しい。
繊細な蒔絵で飾られた美しい篦なんかは、見た事ないけど、そんなのあったら使いにくくてしょうがない。道具にはそんなに過度な装飾はいらない。
でもそこそこ美しい物が良い。やっぱり。
漆器を作る為に漆の仕事で道具として使われる篦。漆器自体も食べるために食事の際に道具として使われる。
ここで言う道具の篦と漆器の違いは商品であるか、そうでないか。この辺の話は多分貨幣とか経済とか交換の話になっていく。
田んぼの造形。
ここで言う田んぼの造形とは、そこそこ美しいという日本人の持つ自然感に基づいた美意識の表れのこと。
谷で生まれ、谷で育った僕の周りには田んぼは存在しなかった。なので田んぼについては良く知らない。知らないけど、木杓子を手に取り使っているうちにいつの間にか「田んぼの造形」「田んぼの美意識」という言葉で色々考えるようになった。
山間部や石の多い所は、石で周囲をかこみ田んぼにしてきた。
田んぼにとって邪魔になる石を取り出し、運び、周囲に積む。水をため、人の歩く道となる。
自然の石を積むから、ブロックやレンガみたいに整然とはいかない。はじめに置いた石の隙間に、なんとなく合う石を置いていく。もちろん伝えられてきた様々な技術はあるだろう。
石を積む。石を積む大変な仕事の中で、手に取った石をどこに置けばきれいにはまり強い構造になるか、大変な仕事の中でも積む楽しさを味わっているはずである。その積む楽しさを含んだ美しさを田んぼに見る。
庭園ではないので美を作り込む必要はない。龍安寺の様に石を配したりしたら邪魔でしょうがない。稲刈りのあとは素晴らしい枯山水になりそうだけど。
田んぼの真ん中に、小さな島を作り白いバラを育て、白い天使が舞う噴水から天に水を吹き上げて、午後の紅茶を楽しんでもあんまり収穫の役には立たない。
宮原君。
はい。
向こうに見えるあの木の下からあっちの山に向かって腰を屈め、奥の石から30個目の石と31個目の石の隙間が最高に気に入っているんだが分かるかね。
なんでしょうね。
よく見てみなさい。ビーナスに見えるでしょう。
とか言われてもきつい。
あっ本当だ、ビーナス誕生!
とかも言いたくない。
やっぱりそこそこで良い。そしてその美しさは作ったものではなく作られたもの。自然の大地に働きかけ、その土地の形に添って作り上げていく。木杓子も同様に木の素材に沿って道具で作られていた。田んぼには人の手の入った、手入れの文化が作った美しさも宿る。木の器も然り。
木杓子は一日にたくさんの数が作られる。もちろん職人さんによるが100本以上作られる事もあると聞く。
作られる工程が決まっていて、細部にわたり刃物のあて方も揃っている。木杓子に使われる木の素材的な特徴と作り手の手にある刃物との関係から刃の動きと木杓子の形が決まってくる。
制作の現場を見て、制作する身体の動かし方は、踊りや武道などの身体表現における型を見てるようだった。
同じ物を数多く作り続けることで、無駄のない身体の使い方を身につけていく。道具もそのように変化してきた。
世代を超えてたくさん作る中から生まれた形が現われる。木杓子としての理想の形と形にしていく道具や作業から中を取ってできてきた形体。
無理のない造形は作りやすさから生まれてくる。
出来上がった木杓子は喜びの表情になる。まさに健康の美。不健康の美も捨てがたいけど。
どこまで作り込むか、これは日本人の自然感に基づいた美意識の表れと思う。
そこそこ美しい、とは意識で自然を征服しないこととも言える。
日本の自然、日本に育つ樹によって日本人の美意識は作られてきた。自然とそれを受ける意識から生まれた造形を木杓子に見る。
このことは、箸を使うことにも共通している気がするのでいつか考えてみたい。
木杓子などを見たり、自分でものを作ったりしていると思う事だが、値段、貨幣価値に置き換える事はとても難しい。例えば木杓子のように作り方が完成されているものを1000円で売っているとする。いろんな理由から800円で売らなければならなくなった場合、どう対応するか。
これはできない気がする。多分同じように作り、ただ安く売る。
品物は変わらず値段だけが変わる。
作り手は、手を抜いて作る事で時間を短縮して値段の変化に合わせないだろう。
作る喜びが減るから。でもどっかに無理が来る。