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2016年02月 アーカイブ

2012.02.24

ひとりぶらり旅

久しぶりの更新。なまけてすみません。
僕の「記憶の記録」展も終了し、
卒業生の皆さん、修了生の皆さんの展覧会も無事終了し、
あとは3年生の展覧会といったところ。

つくばから大阪へ。万博の地から万博の地へ。夢のあとから夢のあと。新幹線で新大阪へ。
朝目覚めると、「おはよう!」ではなく「ちんかんしぇん!」と挨拶するバカボンに出てきそうな次男坊主にのぞみの写真を送信。

新大阪から地下鉄、モノレールを乗り継ぎ万博記念公園へ。
久しぶりに太陽の塔を仰ぐ。やっぱり大きい。
太陽の塔から歩いて少しのところ千里の万博記念公園に建つ国立民族学博物館へ。
初めて来た時は二日酔いの頭をかかえながらの大学3年生の春。展示されていたものは余り良く覚えていないが、太陽の塔と世界各国から集められ民博に収蔵されている品々から受けたインパクトは、インパクトそのものとして強烈に残っていた。
建築や船等の大きな物から小さな装飾品におよぶ展示。
機会があれば行きたい、近くに寄ったときは足を運ぼう、とか思っていたけどそんなチャンスは全然なので、千里を訪ねて三千里。行くしかない。
ぶらりひとりおじさん旅。

岡本太郎と和靖一の対話集「日本人は爆発しなければならないー日本列島文化論ー」を読んだ事もあり、民族学博物館設立がどれだけ大変な思いでなされた事業であったかを知って、もう一度行ってみたいという気持ちも高まってきていた。
展示してあるものを見てまわる。生々しい。
ほとんどが自然との対話、死者との対話に関するものばかり、と言っても良い。神話が生きている時代や場所で作られたものは詩情に満ちている。
一人だったのでゆっくりと自分のペースでまわる。
様々な国の様々な物が展示されているが、やはり木や竹、樹皮でできた道具等の造形物の前では足が止まる。
それらを見ているうちに、木の造形物が作られていた空間性や時間性について考えてみた。
現在はいろんな加工に便利な機械がたくさんあり、頭で考えた形に向かって的確に、早く形を近づけることができる。
機械は直線や直面の加工が得意なので、意識の世界と相性が良い。ということは無意識の世界とは仲が悪い。というか無意識で機械をぶんぶん回していたらケガをしてしまう。
制作する物が決まったらロスの少ない工程を組み、いかにして短時間で図面通りに完成させる事ができるか、そこに主眼をおいている。
民博に展示されている造形物は、様々な道具や動力や機械が無い時代に作られた物が大半を占める。
ゆっくりと時間をかけて作る、その事自体で生まれる表現に独自性が備わってくる気がする。
きれいに早く作るといったスキルの違いだけではない違いを感じた。
作りながら作る過程において、できてきた形から色んな事を発想して意味付けたり形が変わったりしてる、気がする。
意味付けから本来頭にあった構造や形態にまで変化が見られる、という気もする。
作っている最中に他のものを作りたくなってつい作ってしまった物とかもある。これはあくまで想像の範囲。木に宿るなにかとのお話しを楽しみながら作ること。
今なら一日で作れるものが、昔は数週間かかったというのは普通にあること。
一週間のうちに雨もあれば、予期せずおいしいごちそうにであう。使っていた道具が壊れて、違う道具で違う方法で作り進めるとか、形が変わる事もある。集中しながら考え事をしていて、ふらっと歩くと急に色んな事が結びつき、はじめの構想と変化していく造形。
道具等は本来の使い方に沿った形であれば問題ないはずなのに作りながら現れた形から意味を読み取り、意味ある形に造形していくことを楽しむ。
自ら加工している形が、木から発生した形となって目の前に表われ、その形の意味を読み取る。そんなゆっくりとした時間の中から生まれる形と思えるものが、今回は気になった。
こうしたいと思う意識とまだそうなっていない素材との時間のずれから、こうしたいと思っているのとは少し違う形が生まれてくる。
素材と意識とのずれから生じる同調の形とでも行ったらいいのだろうか。ここに造形の面白さが潜んでいる。
素材による違いも面白い。
可塑性の高い土ものの場合、手の動きと土の動きが直接的に関わっているのでさらに顕著にあらわれる。指で押せば、土はへこむ。一方、木の造形物は土ほど直接的ではない。
素材との対話と言うと良くありがちな表現になるが、まさにその通り。常に意識と、その意識によって身体を通して作られているものとのズレは、常に意識外の表現となって着地する。
こんな僕のブログのような物でも、キーボードをたたいていると書こうと思っていた内容からすっと違う方向に移動する事が多い。書こうとする文章の言葉を打ち込むと、打った言葉に違和感を覚えたり、次に打つ言葉が思っていたものから変わったりする。そんな事考えてもなかったということが文字になって残り、そんな事考えていたんだと思い、なるほどねと自分で感心する事もある。
土によって作られる造形はこうしたいと思って手を加えた事により、こうしたいと思ったときと違う形が現れ、次のこうしたいは別のこうしたいになっていく。そのような意識と身体性を伴った感覚とのゆっくりとした同調とズレが抜きつ抜かれつしながら、ひとつの芸術を形つくっている。なんだかよく分からない文章になってしまったが、そう思う。
民博はアイヌの展示がとても充実している。アイヌの木製品のスマートさに感心。
ただしここからは、さっきまで書いていた制作における時間性を感じる事はなかった。
美しいイクパスイの数々、そして片耳杯(器)などの造形。完成度の高いこれらの木製品からは、共同体としての強さや信仰の深さ、規律の厳しさが伺われた。作り手は、それぞれの場所にいてそれぞれに作っているだろうが、ならんだ木製品は統一された美意識に基づいて作られている事がはっきりと見える。その美意識は信仰に裏打ちされたもの。
今は残念ながら閉館となってしまった青森市歴史民俗展示館の稽古館での感動を思い出した。
ぶらりひとりあおもりおじさん旅。
おじさんではすてきな感じが少しもしない。
しかも僕はあおもりおじさんではない。
もう7、8年たったと思うが、たくさん並ぶイクパスイや片耳杯(器)等の器を見る事ができた。特に片耳杯の佇まいには感動したのを覚えている。全体にゆったりとした造形、耳から広がる器の内側の大きな空間。薄く整えられた厚さと繊細な縁。ほんとうにうっとりした。
そして今回の民博でも同じようにうっとり。
そして、これまでそれほど意識を持ってみていなかったものにも出会える事ができた。
そのうちまたここに来るだろうなと思いながら太陽の塔の猫背な背中を目指して駅まで歩いた。