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- プリンター出力(厚手マットコート紙)+ハレパネ(のり付きスチレンボード)
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岩倉具視欧米視察団の一員として参加した田中不二麿は、明治5年に米国アマースト大学を参観し、わが国体育の振興のために同大学の体育を取り入れることにしました。同9年、文部大輔となって再び米国を訪れた田中は、同大学のシーリー学長に体育教師派遣の要請をし、同大学を卒業したリーランドを新たに設置する体操伝習所の教師として招くことになりました。
文部省は、明治11年9月6日のリーランド来日と同時に体操取調係を設け、伊沢修二を任命しました。伊沢は文部省所轄学校の体操を調査するとともに、リーランドの協力を得て、体操の必要性、生徒選定法、従学方法、体操場建設の目的、経費、着手の順序等からなる「新設体操実施ノ方法」(草案)をまとめました。「着手の順序」は(1)リーランドによる各校の体操の巡視(2)体操場の建築(3)生徒の募集(4)両師範学校生徒への体操の実施と効果を測定、(5)大学三学部ならびに予備門、外国語学校生徒に対する体操の実施、というものでした。東京大学学生の体操実施は記録を見ることができませんが、その他は実施されました。
明治11年10月8日、文部省から太政大臣宛に「体操(伝習)所開設ノ伺」が提出され、同月21日、裁可となりました。これを受けて文部省は同月24日、体操伝習所開設の布達を出し、翌日25日、初代主幹に伊沢修二を任命しました。
翌12年4月7日、25名が入学し、授業が開始されました。開設当初の「体操伝習所規則」は「新設体操実施ノ方法」(草案)の内容を反映したものとなっています。
- データ名
- ?1-09.ai
- 作成日
- 2008.10.22