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資料名
伊沢修二の概説
 
サイズ
 
 
手法
プリンター出力(厚手マットコート紙)+ハレパネ(のり付きスチレンボード)
 
文字サイズ
見出し:120 Q
本文 :60 Q
行送り:25 mm
 
表示内容

伊沢修二(1851〜1917年)

信州伊那郡高遠出身。嘉永4年6月29日、高遠城下で生まれた。1861(文久1)年から藩校の進徳館で学び、1867(慶応3)年に江戸へ上京。京都へも上り蘭学などを学ぶ。1870(明治3)年、高遠藩の貢進生として大学南校(のちの東京大学)に進学する。1874(明治7)年には愛知師範学校校長となり、幼児教育に唱歌遊戯を試みた。1875(明治8)年には師範学校取調べの命をうけて渡米、マサチューセッツ州ブリッジウォーター師範学校、ハーバード大学で学ぶ。1878(明治11)年帰国後、体操取調掛となり、新体操法実施についての具体案作成に当たる。その際の基本的な考えは、単なる欧米の模倣ではなく、日本の国情に即した体育の実施であった。伊沢とリーランドは、ハーバード大学の同窓でもあり、伊沢の新体操実施案はリーランドの協力のもとで作られたと考えられる。同年10月、体操伝習所の主幹となり、体操伝習所の施設設備、教科課程作成、活力検査の実施などに尽力した。その後東京市議会議員、台湾総督府民政局事務官、東京高等師範学校長を歴任した。晩年は吃音矯正事業に努め、楽石社を創設 B67歳で死去。
 

データ名
?1-07.ai
 
作成日
2008.10.22