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- 資料名
- 田中不二麻呂の概説
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- 手法
- プリンター出力(厚手マットコート紙)+ハレパネ(のり付きスチレンボード)
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田中不二麻呂(1845〜1909年)
愛知県出身。尾張藩士。 武士の子弟として四書五経を学び、武芸の稽古を行なった。学才があり勤王の志が厚かった父儀兵衛の影響を受け、幼少の頃から勤王の志を持っていた田中は次第に頭角を現し、1869(明治2)年大学校御用掛を仰せ付かり、日本の教育行政に携わるようになる。明治4年太政官出仕、枢密大使、大内史を経て同年11月10日欧米視察のため特命全権大使岩倉具視一行の理事官として欧米諸国に派遣され学校教育を見聞した。その中で一般教養課程的な、質の高い単科大学としてのアマースト大学に興味を持ち訪問したと考えられる。1873(明治6)年の帰朝後、欧米教育制度を紹介した『理事功程』15巻を著す。文部大輔となった田中は1876(明治9)年米国フィラデルフィア博覧会に教育事務取調べのために派遣された。その際、アマースト大学を訪問し、整容体操(Calisthenics exercises)や、附属体操学校の整備ぶりを参観し、に大きな関心を寄せ、アマースト大学長シーリーと指導者招聘の内交渉を行なった。帰朝後、アマースト大学出身の指導者リーランド招聘交渉を日本政府の正式なものとして行い、1878(明治11)年リーランドとの間に正式な契約を結び、体操指導者養成のための体操伝習所設置に尽力した。
- 訂正・修正
- 081124
1973(明治6)年の帰朝後 → 1873(明治6)年の帰朝後
1978(明治11)年リーランドと → 1878(明治11)年リーランドと