I.体操伝習所の資料とその周辺

大熊廣明(筑波大学体育科学系)

 体操伝習所は文部省が体育の研究と体操科教員の養成を目的に、明治11年10月25日に設立した機関で、同18年東京師範学校附属となり、翌19年、東京師範学校に体操専修科が開設されると同時に廃止された。体操伝習所の設立経緯やその教育内容については、今村嘉雄氏の研究(学校体育の父リーランド博士,1968)や能勢修一氏の研究(明時期学校体育の研究-学校体操の確立過程-,1995)に詳しい。ここでは体操伝習所関する主な人物と資料について述べてみたい。
 

伊沢修二関係資料 -体操伝習所の構想

 体操伝習所の開設に関しては、田中不二麿と伊沢修二が重要な役割を演じた。田中は文部大輔として体操伝習所の設立を計画し、アメリカのアマースト大学に教師の派遣方を依頼した人物として知られる。一方、伊沢は体操伝習所の初代主幹としてより具体的な構想を描き、それを実現させた人物である。彼は体操伝習所に関して極めて重要な二つの文書を残している。一つは「新体操実施の方法」「新設体操着手方按」「新体操法実施について」などと呼ばれているもので、罫紙7枚に記された草稿である(実際は無題)。これは伊沢が明治11年9月に体操取調係を命じられて間もなく書いたものと思われ、「生徒選定方法」、「従学方法」、「体操場建設ノ目的」、「着手ノ順序」からなる。おそらくリーランドの助言があったものと考えられているが、体操伝習所開学までの経緯や体操伝習所規則等を見ると、体操伝習所の開設当初に関する事柄はほぼここに書かれたとおりに進行したと言ってよい。この草稿は長野県の上伊那郷土館が所蔵している。

 他の一つは「体操伝習所報告 新設體操法ノ成績」(『教育雑誌』第110号,1879.11)である。この報告は、文部省の直轄学校に新設体操を実施してから約1年後に書かれたもので、食事の量、肺活量、胸囲、握力、力量(懸垂)、身長、指極および体重の増減、ならびに体操と疾病との関係を統計表に表わし、新しい体操の適否を検証しようとしたものである。これにもリーランドの資料提供、助言があったものと考えられるが、人体を測定して数値に表わす方法は、わが国ではここで初めて行われたとされており、体操伝習所におけるこの活力統計は、日本人の身体を学術的に測定し、考察した最初のものと考えられている。上伊那郷土館にはこの報告の草稿も残っている。「新設体操法ノ成績報告」と題するもので、罫紙13枚からなる。
 

リーランド関係資料 -体操伝習所の教育

 体操伝習所の教育に関して重要な人物をあげるとすればリーランド(G. A. Lelandと坪井玄道ということになろう。リーランドに関しては、先に挙げた今村嘉雄氏の研究がある。リーランドは明治11(1878)年9月に来日し、翌10月から14年7月に離日するまで体操伝習所の教師を務めた。彼の講義は『李蘭土氏講義體育論』にまとめられ、本学の中央図書館に所蔵されている。内容は、緒言、遺伝の事、風土の関係を論ず、風習の事、体操の身体各部に生ずる効果(筋関係、血液循環系統、呼吸器、栄養器、皮膚、神経系統)、体操の分量、および体操歴史からなり、罫紙に手書きのものである。おそらく明治13年4月から同14年6月末までの間に成ったもので、わが国で初めて行われた体育論の講義内容を記している点と、この1冊しか存在しないという点で、わが国における体育関係書中最も貴重な書物のひとつとなっている。

 体操伝習所はその開設期間中に、『新撰體操書』(金港堂,明治15年)と『新制體操法』(明治15年)の2冊の本を編集しているが、これらも伝習所におけるリーランドの教育内容を記したものといってよい。『新撰體操書』の凡例には、「此ノ新撰體操書ハ米国波士敦府ノ医学士ジョールジ・エ・リ−ランド氏ノ體操伝習所、東京師範学校及ビ東京女子師範学校等ノ生徒ニ実地教授セシ所ヲ筆記シ或ハ諸説ヲ訳述セシモノナリ」と記されており、『新制體操法』の緒言にも、この本は体操伝習所の第一期卒業生がリーランドについて修了した体操術を基礎として編集されたものである、と書かれている。これらのほか、久松義典記『体育新書』(明治12年)や星野久成編『体操原理』(明治20年)の第15章「体操の沿革」は体操伝習所におけるリーランドの講義内容であり、遊佐盈作編『新撰小学体育全書 下巻』(明治17年)もまた、リーランドの体育法そのままを紹介したものであるとされている。
 

坪井玄道関係資料 -学校体育界の指導者

 坪井玄道は明治5(1872)年、東京に師範学校が設立されたとき、米国人教師スコットの通訳を務め、8年仙台英語学校の教師に転じ、11年体操伝習所が設立されると、米国人教師リーランドの通訳となった人物で、その後は自ら体育教師となり、体操伝習所廃止以後は、高等師範学校、女子高等師範学校、東京女子音楽体操学校などの教員を歴任した。体育センターの前に胸像がある。坪井は生涯に25冊の著・編・訳書を残しているが、体操伝習所時代には田中盛業(体操伝習所第1回卒業生,同教官)と共同で、『小学校普通體操法』(明治17年)と『戸外遊戯法 一名戸外運動法』(明治18年)の2冊を編纂している。前者はわが国ではじめて出版された小学校体操指導書であり、後者は二人三脚競走、綱引、フートボール、ローンテニス、操櫓術などの遊戯21種目を解説した遊戯書である。この種の遊戯書には明治16年に発行された東大予備門の英語教師ストレンジによる“Outdoor Games”があるが、日本人によって書かれたものとしては本書が最初である。このように坪井は、体操全盛の時代に、早くから遊戯の有用性を唱え、体操と遊戯を併用する体育を提唱した。

 坪井に関するまとまった資料は現在、ご遺族から委託されて市川市立歴史博物館が管理し、一部を展示している。資料には126点の辞令、400点を超える書簡、リーランドを含む多くの写真、出版関係資料、その他が含まれており、たいへん貴重なものである。1999年12月に開催された附属図書館特別展では、「坪井玄道 當伝習所へ相雇一ヶ月金三拾圓交付候事 明治11年11月1日 体操伝習所」と記された辞令をお借りした。特別展期間中には坪井玄道のお孫さんお二人をお招きしたが、その際、そのうちのお一人からこんな話を伺った。実はこの資料を筑波大学に寄贈したいと思ったことがあったのだが、受け入れの意思がはっきりしなかったので取り止めることになったのだという。どのようないきさつがあったのかは分からないが、残念なことである。
 

その他

<体操伝習所旧蔵書に関する資料>
 文部省年報によれば、体操伝習所は明治18年の時点で和書4945冊、洋書582冊を所蔵していた。これらの蔵書に関しては大場一義・本学元教授の「体操伝習所旧蔵書についての研究(参考資料)」という冊子が残されている。昭和30年代になされたものと推察されるが、この研究は、体操伝習所の図書台帳に記載されているもののうち、和書に関しては、教育、体育、武芸、医学、整理、解剖、衛生、健全、叢書(一部)の部門に属する図書を、また洋書に関しては、解剖生理、健全、教育体育、體育の項目に属する図書を採録したものである。これによって、体操伝習所が所蔵していた図書の傾向をかなりの程度まで知ることができる。しかしながら、すべてがわかるわけではないので、図書館にお願いして図書台帳なるものを捜していただいたが、現在のところ不明である。

<生徒・卒業生に関する資料>
 体操伝習所は給費生36名、伝習員134名、別課伝習員87名、修業員・専修科48名の卒業生を出した。初めに述べたように、体操伝習所は明治19年に東京師範学校の附属となったため、これらの卒業生にかんする資料は、『東京高等師範学校一覧』に掲載されており、すべてではないが、氏名、出身階層、出身地、卒業後の勤務先等について知ることができる。