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「いっちふいっち」 渡辺のり子、佐々木千智 2010年11月1日~2010年11月5日

展覧会「いっちふいっち」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2010年11月1日~2010年11月5日
出展者:
渡辺のり子(構成専攻総合造形領域4年)
佐々木千智(構成専攻総合造形領域4年)

B型11月生まれの蠍座で、バイト先も研究室も一緒。住んでる所も近い甘いの大好き自由人。共通するところはあるけれど作品を作ってみたら全然違うものができました。と思いきや根っこのところはやっぱり似ていたのでした。
来ていただいた方はこの根っこの部分を見つけて頂けると嬉しいです。

T+review

ギャラリーに足を踏み入れた途端にまずわたしの目に飛び込んできたのは、乙女心をくすぐるたくさんの色たちだった。その色はチョコレート、ビスケット、クッキー、生クリーム、イチゴのソースetc、女の子ならば誰でも愛すべきお菓子のかたちをしている。ハイヒールやパンプスの上できらきらとして、ギャラリーというホワイトボックスのなかで私たちを取り巻く。まるで、にぎやかなお菓子パーティへとわたしたちを誘うかのように。佐々木千智さんの作品《Pink Strawberry》。
ふと壁面を見やると小さなボックスがずらりと並んでいる。中を覗くと、在るのは言葉のない寓話。そこで流れている時間は、他の場所の時間とは違う気がした。箱の中の時間の軸にそって進行する乙女のココロの詩のかたち、そのポエジーのうたはあまりに小さく、よく耳を澄まさないと聞こえない。脆く、儚く、まっすぐで、純粋。渡辺のり子さんの作品だ。

微かに聴こえるポエジーのうたに耳を澄ましながら甘い色彩のなかに立っていて感じた。ここではまるで、思春期の乙女の心を覗き込んで、その深淵を見るようであると。
いっちふいっち展という展覧会名で、多くの共通点を持つ二人が私たちの前に別々の作品を作り上げた。その表現のかたちは“ふいっち”、しかし根底にあるものは“いっち”しているのだという。
ギャラリーを出た途端あることに気付く。作者の二人の“いっち”は実は、わたしたち女の子ならば誰しもが持つ共通項としての“いっち”なのであり、その証拠に鮮やかな色彩と微かに聴こえるポエジーのうたを自分の中に見つけることができるではないか!!こんなにも彼女たちの作品の華やかさや、かわいらしさ、そしてちょっとの切なさに心をときめかせてしまうのは、甘く、だけどちょっぴりビターな乙女の歌をわたしたちも口ずさんだことがあるからだろう。(岩村美里)


「Pocket」 青野広夢 2010年10月25日~2010年10月29日

提出画像
展覧会「Pocket」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2010年10月25日~2010年10月29日
出展者:
青野広夢(芸術専門学群 洋画専攻2年)

心の片隅に潜む思いたちの物語。
パステル画を中心としたイラストと絵本の展示。

T+review

牛乳を温めて、少し冷まして、火傷をしないくらいの温度になってから口に含むときの安心感。もしくは風邪をひいたときにお粥をよく噛みゆっくりと飲み込むときの身体に染み渡る感覚。ひとたび目にすると、ふんわりとわたしの精神を包み込むように守るように広がる感覚が襲ってきた。

「なんていう可愛さ!」と幼い頃の自分ならきっと、際限無く長め続けていたであろうような胸をくすぐるピュアさと、「温か過ぎて怖い!」と成長してきた自分が素直に受け取れないピュアさは、同じ空間に上手く調和し共存していた。ドライアイスの煙のような演出のあるキャンバス上には文字一つ書かれていなくたって観る人それぞれが物語を紡ごうとするだろう。

新しいことを覚える度に同じ量の記憶を削っている心地がするわたしの怠惰な脳みそは、夢の詰まったPocketの中で何かを思い出そうとしていた。この種の感覚はいつ何処で味わったのか。そうだ。毎日のように開いていた、はりねずみだったか、モグラだったかの絵本。純粋に真に万人が認める可愛さというよりは若干独特な匂いのする絵本だったのかもしれない。でも考えてみれば、当時ことある毎に開いていたあの絵本の残像は、今でもわたしの好きなものや選ぶものに影響している気がする。真っ赤なポピーの花とパステルっぽい緑が並んでいる画面がとっても好きだった。きっと誰しもがわたしと同様のセンチメンタルな思い出を持っているだろう。あの時のわたしは手にしているような本が作られる過程を知る日が来るなんて思ってもいなかった。現にこうして目の前にアーティストという大人が作り上げた、出来立てホヤホヤの絵本や絵本になるような絵がある。想像という名の前進と懐古という名の後退が、心地良い均衡を保ってわたしの中に揺蕩たゆた う。

青野の、気持ちを届けるポストは、夢見心地のように見えるが、賭けだ。誰も監視しないポストに自由に言葉を書いて投函して良いとなれば、幸せな台詞ばかりが収集される訳では無いだろうことが想定される。ところが、不思議なことに、ポストに描かれた配達員らしきシロクマが暗示をかけているのか、十中八九感動的なメッセージが届くのだ。愛する家族や恋人へ、未来も溌剌はつらつ と生きる自分へ、現在より針の先ほどでも良くなった世界へ。毎日毎日ニュースでは反対ベクトルのお話ばかりが五感を刺激する所為か、一人ひとりの表面的な、もしくは奥の奥の奥にあるような、小さなPocketから覗いたあったかさに触れるだけでわたしの眼からは透明な妖精たちが嬉しそうに飛び出していた。(辻真理子)


「私の心はティッシュペーパー」 和田晴奈 2010年10月4日~2010年10月7日

展覧会「私の心はティッシュペーパー」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2010年10月4日~2010年10月7日
出展者:
和田晴奈(芸術専門学群 総合造形2年)

自分についてのインスタレーション

T+review

素直で正直。幼少の頃にはそうあるように教えられ、私自身もそうあるべきだと思っていたし、今も思い続けている。しかし、成長するにつれ、自分の中でごまかせることはごまかす、嘘で通せることなら嘘で通す、本当の自分でない姿を周囲に対してでっちあげる、曖昧なことや答えが出ないことは考えないように、少しずつ少しずつ見えない何かにそそのかされてゆき、首尾よく状況に対処する能力もついてくる。全てをそつなくこなす立派(だといわれているよう)な大人になるためには、時や場所・環境に合わせて自分を柔軟に変化させねばならないのであろう。今展示は、自分の内面と向き合うことや他者から見た自分を意識するという、面倒で忘れようとしがちな論題を正面から突き付けている。ホワイトキューブの閉鎖的な空間に居るティッシュペーパーは私に、気まぐれで素直な心を持った女の子の存在を伝えてくれた。
一人間として、どのような姿であることが理想的なのかという疑問はいつも私に付きまとっている悪魔のような存在であり、しばしば私を日々の喜びの花畑から突如として悲痛の荒れ地へと連れてゆく。ところが、自分の精神をティッシュに例えた作品、次々と見えない風に軽く飛ばされる、というよりは上手く風に乗って行く鳩のようなティッシュペーパーを眺めていたら、なんとも平安でバランスのとれた心地良さを自分の心に見出した。他人の影響を受け、場の空気に流され、些細なことに打ちのめされる自分を発見した和田の心は、それが嫌だとも好きだとも言わずに、ありのままでユラユラフワフワとあっちへこっちへと漂い、辿り着いた先で貴重なひと時を過ごし、また好い風が吹いたら違う場所へ動く。訪れる先々で、皆に親しまれ、いろいろな方法で使われる。なんともひょうきんでどこにでもありそうだが、ないと困る尊い存在ではないだろうか。
ティッシュペーパーは柔らかく私たちの肌に優しく触れてくるが、一方で、それ自体の素材は繊細で、ある意味脆い。それでも、時には幾重にも重ねて、時にはこよりにして、うわべではなく、実際に強く逞しく活躍する。ティッシュペーパーのその性質も少女に当てはまるのではないか。そんな風に想像力を掻き立てる、すがすがしい空間であった。(辻真理子)


「彫塑M2女子4人展」 馬場絢女、他 2010年9月21日~2010年9月24日

t+
展覧会「彫塑M2女子4人展」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2010年9月21日~2010年9月24日
出展者:
馬場絢女(彫塑M2)
樽井美波(彫塑M2)
灰塚みゆき(彫塑M2)
牧野未央(彫塑M2)

彫塑のM2の女子の4人の展示会です。
個性豊かな彫刻作品をお楽しみください。

T+review

当たり前のことだけれど、彫刻や塑像は決して動かないし、決してしゃべらない(わたしたちの見ている前では!)。しかし、彫刻や塑像を見ていると、わたしに向かって、大声で、あるいはささやくように、何かを訴えているのをひしひしと感じる。彫刻や塑像は、静かに、わたしたち鑑賞者に語りかけている。
 ギャラリーの近くに行くと、看板に取り付けられた4人の顔が出迎えてくれて、思わず笑顔になってしまった。中に入るように誘われている気がして早速入ると、小さなギャラリーの中に、たくさんの彫刻が並んでいる。彫刻や塑像が並ぶ場所には、一種の気配、「存在している」という気配がある。それは彫刻、塑像の大きさ、量が生み出す存在感であろう。ギャラリーの中には、作品の存在感が満ち満ちている。今回は4人のグループ展ということで、4人4様の作品を見ることが出来る。作者ごとにまとまって展示されていたのではないけれど、作品の雰囲気や対象の捉え方、表面に残された指の跡など、それぞれ個性があっておもしろい。中でもわたしがハッと思ったのは、灰塚みゆきさんの《はと》と牧野未央さんの《夜空の模型》。《はと》は、実際に触れたらきっと固くて重いのに、なんだかふんわりとして思わず抱き上げたくなるような柔らかさを感じて不思議。《夜空の模型》は、膝を抱えて丸まった背中が妙に切なく、愛おしく、その隣にそっと座ってやりたいような、あるいはうしろからぎゅっと抱きしめてやりたいような気持ちになる。この作品は、わたしに、そうしてほしいと全身で訴えかけている、絶対。
 彫刻、塑像の作品がもつボリューム、マチエール、人体であったらポーズ、表情、仕草。その全てが鑑賞者に傾けられている。この雄弁で寡黙な立体物は、いつも鑑賞者に何かを伝えようとしている。わたしは今回の展覧会でたくさんの彫刻、塑像を見て、それらひとつひとつが、伝えたいいろいろなものを秘めながら、わたしたち鑑賞者を静かにじっと待っている、そんな気がした。(金沢みなみ)


「無題」 関川航平 2010年2月3日~2010年2月5日 

無題
展覧会「無題」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2010年2月3日~2010年2月5日
出展者:関川航平(日本画1年)

頭でっかちになって、ふと根本があやふやなことに気づき、解らなくなること。

についての、インスタレーション。

T+review

現在、美術の世界は、あらゆるものを巻き込んで膨張を続け、さまざまな状況(政治経済、利害関係など)が複雑に絡み合い、芸術とそれ以外のものの境界線がますます曖昧になっているように思われる。視点を定めてしっかりと立っていなければ、強風に煽られて、濁流に飲み込まれて、自分の意図しない方向へ、良くも悪くもどんどん流されてしまう。今回の展覧会では、そんな混沌とした状況の中で見失っていく「原点」をみつめなおし、混沌の中にも自分自身の場所を見出そうとする彼の行為そのものを作品と見なすべきであろう。

 ギャラリーに入ると、鉛筆の匂いがつんと嗅覚を刺激する。ギャラリーの真ん中あたりに置かれた台の上には、鉛筆削りとちびた鉛筆、そして削りくずが山積みになっている。会期中、天井から吊り下げられたいくつもの白い額の向こうで、彼はひたすら白い壁を鉛筆で染めていく。書いて削って、書いて削って、の繰り返し。何を描くでもなく、まるで大きな画用紙に夢中でクレヨンを走らせる子供のように、彼はどんどん鉛筆を消費していく。わたしは、一見退屈で無意味に思えるこの行為に、見失いかけている「原点」と必死で向き合おうとする彼の姿を見出した。今やあらゆるマテリアルが芸術となり得る美術の世界で、鉛筆というたよりない筆記具は、芸術における「原点」であるといえる。そう考えると、天井から吊り下げられたいくつもの白い額は、作品という体裁を取り繕う(!)一方、錯綜する世間から自分を隔離して、じっくり「原点」と向き合うための防壁のようでもある。

 現代の混沌の中で、迷子になりがちな自分をときどき顧みること、忘れ去られていく物事の本質(「原点」)を振り返ること、は非常に大切である。これらの行為は本来個人的であるが、今回のように展覧会という形をとることによって、彼自身だけではなく、見る者にとっても、ハッと気づかされるものがあったはずである。

(金沢みなみ)