「すりぬけるもの」 山越梓 2011年12月12日~2011年12月16日
会場:アートギャラリーT+
会期:2011年12月12日~2011年12月16日
出展者:山越梓(芸術専門学群構成専攻1年)
これは記憶の展示です。
どんな記憶であるか、わたしにもわかりません。
T+review
「これは記憶の展示です。」‐展示に対する作者の言葉はこの一言。展示室に入ると、自分の体の大きさが分からなくなったような感覚がする。床に積まれた砂利や、隣に立つ鉄柱によって、展示の様子が高い空から見下ろした風景のように感じられるからである。
床に積まれた、素朴で明るく白い砂利の合間からは、豆電球が点灯しながら顔をのぞかせ、命を燃やす人間のようである。砂利は、人類共通の記憶のような太古の砂漠。そのとなりには私たちが生まれた時代の工業地帯に立つような鉄柱が飾られている。壁際には点かない電球が二つ設置され、床には「N40.463667」といった位置情報を示す数値が書かれている。
今回の展示で作者が表わしたのは、幼いころの聖書の記憶だそうだ。床に描かれた位置情報は、実家や協会、聖地。壁の頂点にある壊れた電球には、キリストに関する台詞が記される。これらの表現は「完璧な聖書」ではないし、もちろん他者に伝わりにくい。他人とは異なる人生を生きてきた個人の記憶を表現するのだから、この溝は避けられない。だからなおさら作者の説明があればより作者の記憶に触れられたのではないかと思う。一言の説明で理解するにはあまりに抽象的であり、鑑賞者の空想に任される部分がかなり大きいのだ。
「これは記憶の展示です。」‐記憶は何を「すりぬけるもの」なのか。記憶の持ち主が生きてきた時間をすりぬけ、世にはびこる情報をすりぬけ、私たちの記憶は私たち自身に運ばれていく。記憶の正確な状況や視覚情報は段々と崩れてゆき、最後まで残るのは自分の内面にある印象やイメージだ。それらは自分の中では確実に存在するものだが、他人に伝わるように表現するのは大変難しい。今回の展示でもそうだろう。だが、表現しようとしている作者のイメージを感じとることはできるはずだ。どこか異国のような雰囲気が漂い、周りの空気が張っているこの展示。それが作者の表わそうとしているものである。思えば幼いころ、自分の身近な世界の外側は、本当に異国のように遠い遠い存在だった。
イメージを共有することができてもできなくても、それが「記憶の共有」だと思うのだ。(岡野恵未子)