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「めずらしい植物展」久光真央、他2015年11月9日(月)~11月13日(金)

展覧会「めずらしい植物展」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2015年11月9日(月)~2015年11月13日(金)
出展者:久光真央(芸術専門学郡芸術学専攻)
楊楊(情報デザイン修士2年)
遠山寛人(情報デザイン修士1年)
周ヨウ(情報デザイン研究生)
神田実咲(芸術専門学群情報デザイン領域1年)

ADP15(筑波大学アート・デザインプロデュース2015)のプロジェクトのひとつであるADPぷらんたが筑波実験植物園の企画展「めずらしい植物展」の主催の研究員の方と共同で制作したパネルを展示します。

T+review

外から見えるギャラリーの様子はいつもと少し違っていた。いつもの白いギャラリーが緑で埋め尽くされている。そこには小さな植物園が出来上がっていたのだ。
扉を開けるとやさしいオルゴールの音色が響いてきた。その音色に誘われて中へと足を踏み入れる。
背の低い植物の多くは机の上に、背の高いものは床に直接置かれている。中には天井から吊り下げられているものもあり、小さな空間だが様々なところに目を向けて楽しむことができた。展示されている植物にはそれぞれ手書きのカードが付けられていて「しっとりとした触り心地」「触るとニンニクのにおいがする」などの紹介文のとおり、ここに展示されている植物には実際に触れることでそれらの違いを感じることができる。柔らかな触り心地の白みがかった色をした葉を持つアサギリソウが印象的だ。
なかには世界最大の花・ショクダイオオコンニャクのように実物を展示できない代わりに等身大のパネルが展示されている場合もあり、それを見上げる、自分の身長と比べるなどでその大きさを十分体感できる。
一方、壁面には写真と漫画の2種類の解説パネルが貼られている。一枚には植物をアップで映した写真と短いキャッチコピーが付けられており、もう一枚は6コマ漫画だ。めずらしい植物の特徴を「まめくん」などの個性的なキャラクターたちがわかりやすく紹介している。
心地良い音楽と緑に囲まれた癒しの空間。そこではゆったりとした時間が流れていて、思わずずっととどまっていたくなってしまった。パネルからもわかるようにここで紹介されている植物たちは筑波実験植物園でも見ることができる。美術館だけではなく、ときどき植物園にも足を運んでみるのはいかがだろうか。(大藪早紀)

久光さん


「うまれる」丹治遥 2015年7月13日〜7月17日

展覧会「うまれる」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2015年7月13日(月)~2015年7月17日(金)
出展者:丹治遥(総合造形領域4年)

日々考えていること、感じていること。

T+review

写真に収められているモチーフは、たくさん浮かんだシャボン玉や、花から飛び立とうとしている小さな虫や、道端に落ちているゴミ、列になって伸びている飛行機雲など、一見するとなんの共通性のないものである。しかし、展示冒頭に「次の瞬間には 無くなっている」という言葉が掲示されていたので、鑑賞者は安心してその言葉をもとに作品から共通項を見出しながら見ていくことができたのではないだろうか。
作者が表現しようとしたものはおそらく「無常さ」だろう。シャボンはすぐにわれてしまうし、小さな虫は目をそらせばすぐにどこかへ飛び去ってしまうし、道のごみも風に飛ばされたり雨に流されたりしてどこかへ消えてしまう。普段なら見つけても気にもとめない日常の場面の中に潜む無常的なものを、写真という形で提示したのだと思われる。どの写真もモチーフが小さめだったり画面の中央からずらしてあったりする構図が多く、写真単体のもつ迫力がやや弱めであるのも、このテーマを意識したからかもしれない。またこの展示では写真の配置の仕方も特徴的であった。ギャラリー内には多くの写真が飾られていたが、大小様々で、並べられ方も縦横できれいにそろえたりすることはなく不規則にちらしてあった。それにより、堅苦しさがなく開放的で、何気ない風景を自然に見せているように感じられた。
この展示では展覧会名について二点気になったところがあった。写真にとられているものが消える予感のするものか、消えようとしているものか、すでに消えてしまっているものが多く、「うまれる」という言葉を連想させるものが無いように感じたということと、なぜ「生まれる」でも「産まれる」でもなくひらがなで「うまれる」であるのかということである。いったい何がうまれたのだろうか。ひらがなにしたのにはどのような意図があるのだろうか。漢字で書けるものをあえてひらがなで表記している作品などは時々見かけるが、おそらくそれぞれ自分の表現したいものに照らし合わせて考えを練っているのだろう。
蛇足かもしれないが、参考までに谷川俊太郎の「世代」という詩の一部を書いておく。

漢字はだまっている/カタカナはだまっていない/カタカナは幼く明るく叫びをあげる/アカサタナハマヤラワ
漢字はだまっている/ひらがなはだまっていない/ひらがなはしとやかに囁きかける/
いろはにほへとちりぬるを(市川太也)

umareru


「うさぎ展~おひろめ会~」堀内菜穂 2015年6月8日〜6月12日

展覧会「うさぎ展~おひろめ会~」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2015年6月8日(月)~2015年6月12日(金)
出展者:堀内菜穂(構成専攻総合造形領域4年)

たくさんのうさぎみたいなともだちをおひろめします。
ともだち100人できるかな~。

T+review

「うさぎ展」という可愛らしい題名と、垂れ幕からちらりと見えるふわふわの展示物に惹かれてギャラリーの中へ。それぞれ三段づつある二つの棚には、色とりどりのうさぎの形をしたぬいぐるみが並べられていた。耳の垂れているもの、眠そうな目をしているもの、眼鏡をかけているもの、小さな冠をかぶっているもの。一つとして同じ外見のものはいない。おめかしをしておりこうさんに並ぶ様子はまるで、これから見知らぬ誰かに貰われていくのを今か今かと待っているようだった。
 彼らの名前は「neighbor」という。心の隣人という意味の、誰かの心に寄り添うために生み出されたうさぎたち。顔には目しかパーツがないためはっきりとした表情は読み取れないがどこかあたたかみのある彼らからは、作者のとてつもなく大きな愛情を感じた。きっとたくさんの時間をかけて、大事に大事に作られたのだろう。そんな彼らは、今度の芸術祭でコンセプトの一環として販売され、みんな離ればなれになってしまう。少し勿体ない気もしたが、これも作者が望んだ形。彼らもそれを楽しみにしているように見えた。親の愛情を一心に受けてここに展示されている彼らは、親の手を離れ誰かの元へ貰われていった時、きっとその人の心に寄り添ってあたたかい気持ちを届けるのだろう。
 芸術祭でも是非彼らに会いに行こうと思いギャラリーを後にした。こっそり心に決めたお気に入りのあの子が、私の心にも寄り添ってくれることを願って。(堀越文佳)

usagitenn~ohiromekai~


「かわいい展」 堀越文佳、他 2015年5月25日~2015年5月29日

展覧会「かわいい展」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2015年5月25日(月)~2015年5月29日(金)
出展者:堀越文佳(芸術専門学群洋画専攻2年)
吉田和美(同上)
鶴見阿未(同上)
成田香月(同上)
下釜早貴(同上)
大迫璃子(同上)
川路奈々世(同上)
野村日向子(同上)
沼田有理子(同上)
酒井光(同上)
大野朱里(同上)
渡辺彩(同上)

出展者それぞれにとっての「かわいい」を展示します。

T+review

そこには11の「かわいい」が存在していた。ふわふわとしていてとらえどころのない「かわいい」。対価を払って作り出された「かわいい」。一見グロテスクでありながらもどこか感じることのできる「かわいい」。ギャラリーの中で私は、これらの作品たちに「わたしたちはこれがかわいいと思うのだけれど、あなたはどう思う?」そう問われているように感じた。
そもそも「かわいい」とは何だろうか。日々のわたしたちの会話、コンビニに並ぶ雑誌、タレントの出演するテレビ番組、とりとめのない呟きが並ぶSNS・・・日常のあらゆる場面がこの言葉であふれている。しかしそれらが指す対象に一貫性はほとんど無い。飼っている子猫がかわいい、電車で見たおじさんの行動がかわいい、あれがかわいい、これがかわいいと人の数だけの「かわいい」がある。それはまるで自分の好みに合ったものにはとりあえず「かわいい」というラベルをべたべたと貼りつけているようにも思える。「かわいい」という言葉はひどく曖昧なものだ。
 ギャラリーに展示された11の作品たち。その中には少し奇妙に感じるものや恐怖を感じ、素直に「かわいい」と感じることのできないものもある。しかしどれも制作者にとって、そしてそれを「かわいい」と感じた人にとって、その作品は間違いなく「かわいい」なのだ。
わたしたちが普段なにげなく使う「かわいい」という言葉。「かわいい展」は自分の中でその言葉と向き合うきっかけとなったように思う。(大藪早紀)

kawaiitenn


「竹中大悟 個展『All I see』」 竹中大悟 2015年5月18日〜5月22日

展覧会「竹中大悟 個展『All I see』」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2015年5月18日(月)~2015年5月22日(金)
出展者:竹中大悟(人間総合科学研究科 芸術専攻 彫塑領域
博士前期課程2年)

主に昨年制作した、彫刻作品の展示です。

T+review

彫刻作品には、事物の輪郭線や質量を厳しくとらえている作品も多いが、こういった作品を見たとき、私は作品自体に高い精神性を感じるというか、「我々人間とは決定的に異なる高潔な存在」という印象を受けることが多い。美しく決して手の届かない存在に、私は思わず畏敬の念を抱かされる。

対して、今回の展示作品「All I See」は、人がまとう雰囲気ごと人を表現したような、柔らかな彫り込みや色彩が印象的であった。ふんわりと柔らかそうでいて、しっかりと質量を持っている。人間と同じだ。私はギャラリーに入る前から「彼」の視線に思わず警戒心を抱いてしまっていたが、すこし安心して観察を始める。

しかし適度にデフォルメされた人間達には、我々生きている人間にはない違和感が存在し、じっと見つめているうちにどこか不安な気持ちになってくる。親しみ易い雰囲気に引き込まれ忘れてしまっていたが、私は彼もまた「我々人間とは決定的に異なる存在」だったということに気付く。気付いた瞬間、彼が何かとても恐ろしいもののように感じられる。私たち人間のような姿をしていて、しかし異なる得体のしれない存在。花に擬態するカマキリのように、私たちが親しみを感じて寄ってくるのを舌なめずりして待っているのかもしれない。そんなあらぬ想像を膨らませた私を彼はただ静かな目で見つめていた。

事物はそこに存在するのみで様々な情報を発信していて、人間はそこに意味や共感を見出そうとする。彼らは物を言わないから、投げかけた言葉は決して返ってくることはない。返ってくるとしたら、事物に投影した自分自身の言葉だろうか。自分自身の理解の範疇に無理やり他の物を入れようとすると、結局のところ自己投影に行き着く。彼らの視線に恐れを抱くのならば、自分のどこかに罰されるべき後ろめたい部分を持っているということになるのだろう。なるほど、彼はすべて知っている。彼はすなわち私自身なのだから。(山崎玲香)

All See