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「洋画三年展」堀越文佳、他 2016年6月27日~7月1日

「洋画三年展」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2016年6月27日(月)~7月1日(金)
出展者:堀越文佳(洋画コース3年)
酒井光(洋画コース3年)
川路奈々世(洋画コース3年)
野村日向子(洋画コース3年)

美術専攻洋画コース三年有志による展示です。


T+review

 「洋画」というと西洋の古典絵画を思い起こしがちだ。「洋画」という言葉だけでは西洋の映画が邦画に対して使われているのか、西洋の様式で描かれた絵画か判断できない。映画と区別するため絵画の方を「西洋画」というくらいだ。西洋あっての絵画のようないわれだ。しかし私がみたものは本当に西洋画だろうか。各々の個性が弾け合い一見まとまりのないところが共通点のようだ。水に浮かぶ女の子、好みの男の子、じっとこちらを見つめる西洋風の男性・・・。各々が好きなように描いている。それは鑑賞者にも共感できる人物や風景だ。伝統が高尚なものと扱われ一般人の手から離れてしまえばそれは危うく、消えかけのロウソクのような命である。しかし彼女たちが再び手に取り現代への美術の在り方として提示することで、西洋画は現代へと命を吹き返す。新しいものが出来たら古いものが消えるのではない。新しいものが生まれることで、古典は再び返り咲き、その価値を示す。逆もまた然りである。未熟かもしれないがこれからの西洋画の可能性を感じた展示であった。(古屋花子)

洋画三年


「@odd」篠倉彩佳 2016年6月20日~6月24日

「@odd」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2016年6月20日(月)~6月24日(金)
出展者:篠倉彩佳(総合造形領域3年)

いきているここちがしないときがありませんか


T+review

 「神は死んだ。」と、ニーチェの言葉を思い出した。
 展示室に置かれた教室机と教壇は懐かしい空気を思い起こさせる。芳名帳として置かれた学習帳には来観者らの童心に帰った字で名前が記入されている。しかし、その前の教壇に座るのは不気味な雰囲気をかもしだす一体の人物像である。髪の毛はなく、目はどこかをじっと見つめている。決してこちらを見つめているわけではないのだが、何かに監視されるような恐怖感が漂ってくる。
 子どもの一日を支配するのは大半が学校生活であって、子どもの社会は教室という狭い空間に縛られている。学校は村社会であり、異端の排除、すなわちいじめによって社会からの追放が執行される。その学校生活を支配するのが教師であり、先生は神となりうるか と、コンセプトから問いかけられている。
 教壇に座るのは教師、すなわち神の象徴となっていると思われる。それは手の向きがイエス・キリストの祝福をあらわす形になっていることからだ。また、生徒の立ち位置である机の席に座ってみると像を見上げることになり、神としての崇高さを演出している。本来の教室のような雑多な雰囲気ではない、展示室の閑散とした空間にうまく緊張感を与えている。
 コンセプトには続きがある。世代交代と情報の加速化が確実に進んでいるなかで子どもたちは誰に教わるのか。教師は大人でなければならないのならば、大人とはいったい誰のことを指すのか。本当の大人になれるのだろうか。そのようなことがつづられている。
 確かに、頭が大きく髪の毛のない人物像は赤子のような雰囲気も感じさせる。そうとなれば、この像には「大人」と「子ども」の矛盾した二面性を内包していると考えられる。
教師である絶対的な「神」の存在が不確かなものであることを、この作品はあらわしているといえる。「神は死んだ」のだ。
 人類の歴史は速度を追い求めた歴史でもあった。今ではその速度は自らの存在をも追い越してしまっている。私たちはこれからどこへ向かえばよいのか、情報が、社会が敷いたレールの上を走ればよいのだろうか。現代が負っている問題を、教室という空間で演出し、 多面的な観点から考えさせる、巧みなインスタレーションであった。(濱田洋亮)

ポスター


「幻想展」加藤空、他 2016年6月13日~6月17日

展覧会「幻想展」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2016年6月13日(月)~2016年6月17日(金)
出展者:加藤空(日本画コース2年)
    高橋友里奈(日本画コース2年)

幻想が向ふから迫つてくるときは 
もうにんげんの壊れるときだ
(宮沢賢治、「春と修羅」より)


T+review

「幻想が向ふから迫つてくるときはもうにんげんの壊れるときだ」
宮沢賢治の「春と修羅」より。

 「幻想」それはたしかに人間が想うものだが、幻の想いである。目には見えない、しかし確かにあったことを何が証明できようか。言葉、そしてそれから絵だ。小説の一節とそこから想起されるイメージを描いた展示。空想が言葉になり、言葉が絵になり、絵がイメージとして人々に訴えかける。イメージはより具体化していくのに対し、小説が作り話だとしたらそれを描いた絵はさらに幻想の度合いを高めていることが面白い。人は目には見えないものを追いかける性分があるのと同時に、芸術家にはそれを視覚化したい思いもある。終わらないからである。目に見えるようになっても、私たちはまたそこから何かしらのイメージを受け取る。そしてまた空想にふける。そうすると芸術は人間の幻想を促す一部でしかないのかもしれない。吐き出そうとしているはずなのに、吐き出したものから飲み込んでまた私たちは幻想の世界にはまってしまう。
 「幻想が向ふから迫つてくるときはもうにんげんの壊れるときだ」
迫り来るイメージに圧倒されながら、頭の隅でその言葉がぼんやり響いた。(古屋花子)

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「彩」 小谷恵子、他 2016年5月30日~6月3日

展覧会「彩」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2016年5月30日(月)~2016年6月3日(金)
出展者:小谷恵子(クラフト領域木工4年)
    伊藤杜音(クラフト領域陶磁3年)

陶と漆の器を展示します。


T+review

 「彩」という展示名と、サイケデリックなポスターからは考えられないような落ち着きがギャラリーには広がっていた。壁側とガラス側に置かれた2つのシンプルな縦長の机には陶器と漆器が交互に置かれ、全部で9点の作品が展示されている。
 陶器や漆器と聞くと古風で慎ましいイメージを私は持っていたが、展示されている作品はどれもそのイメージとは異なっていた。漆器は様々な色による不思議な模様がキラキラと輝き、陶器はその鮮やかなトルコブルーが目に飛び込んでくる。こんなにも陶器や漆器を時間をかけてじっくりと鑑賞するのは初めてだった。よく考えると、この色鮮やかな作品たちは元は色のない木や土だったのだ。その色のないものたちが展示者たちの手によって、様々な色を得て、鑑賞者の目を引くような作品となった。まさしく「彩」である。ギャラリーに静かに置かれている艶やかで鮮やかな器たちは、陶と漆によるその独特な色で私たち鑑賞者を惹きつけ、楽しませてくれた。(宮崎茜)

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「garden : spring」五十嵐理乃2016年5月9日~5月13日

「garden : spring」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2016年5月9日-5月13日
出展者:五十嵐理乃(総合造形領域、4年)

写真の展示を行います。


T+review

春は色に溢れる季節だ。桜は満開になり、多くの木々が芽吹いている。厳しい冬を抜けた先のよろこびである。しかし、この作品の、モノクロームで描き出された春にはどこか憂いを感じた。写真に映る白く優しい光には暖かみがあるが、そこから浮き出るように哀しさが 強調される。
「目に映る世界こそが全てであると どうして断言できましょうか」(本作品コンセプト より)
たとえば、目の前の人が笑みを浮かべていたとしても、自分は相手が嬉しいのか嘲笑っているのか、本当のことはわからない。だから、人のこころは表面にあらわれる現象を追うだけでは理解しえない。そのことを本作品は春という題材の彩度を消すことで、直接的に表現していると思われる。その表現意図も、写真に映りこむ対象の配置や構成を気遣うことで強さを増すように感じられる。(濱田洋亮)

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