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「恋人」 藤田奈々子 2011年10月31日~2011年11月4日

展覧会「恋人」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2011年10月31日~2011年11月4日
出展者:藤田奈々子(芸術専門学群構成専攻VD領域4年)

写真の展示

T+review

ギャラリーに入ると、柔らかい光に照らされた沢山の写真たちが並んでいる。縦横の列や並びなどは関係なしに並んだ写真は、展示空間全体に動きを生み、いきいきとした印象を与えている。散り散りになっているこれらの写真は、浮かんでは消える頭の中のイメージのようである。「恋人」と聞いたときの心の様子を表しているのかもしれない。
 作者はこの展示で、恋人の存在を示そうとしているわけではないだろうし、観る側にとってもそのような印象は受けない。感じるのは、写真という形で切り取られて作品群となった、「恋人」に関する多様なイメージ。そして彼に対する、幸せで、強い作者の気持ちである。作者は、恋人について浮かぶものを切り取り、カメラで時間を止めて作品としていく過程で、自分も恋人のことを再認識したかったのだろうか。
 写真に写っているのは、恋人との生活の点景である。彼が写っているものあるし、風景の一部の写真もある。そしてカメラを覗く目線は常に彼女のもので、恋人をやさしく見つめているような視点や、彼と過ごしているときにぱっと見上げたような視点で撮られた木々などにより、彼女の存在を感じとれる。まるで自分が作者になったような気分になる。
 自分の恋人を作品にすることは、もしかしたら勇気のいる行為だったかもしれない。主観が入りすぎてしまったり、見せ方が難しい部分もありそうだ。しかし、思い切って恋人のことを表現したこの展示は、その表現を肖像など、恋人を直接的に写すもののみに制限していないためしつこくなく、観る側にためらいを与えることもない。素直に作者の、「恋人のイメージ」が再現された展示だった。(岡野恵未子)


「i.m.y.m.e.」 藤田渚 2011年10月3日~2011年10月6日

展覧会「i.m.y.m.e.」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2011年10月3日~2011年10月6日
出展者:藤田渚(総合造形M1)

I love me, and love me.

T+review

ギャラリーの窓、壁、床には作者のさまざまな時期の個人写真が所狭しと並べられていた。作者は部屋の中央に置いてある背もたれの深い椅子にゆったりと腰かけて、時たま訪れる知り合いと写真を見ながら談笑していた。
 私は、自分の日常の記録に囲まれながら平然と座っているなんてとても恥ずかしくて真似できないと思った。ひとしきり見回ったあと、作者に疑問に思ったことを尋ねた。T+ギャラリーで展示をする理由、自分の写真を並べ、本人がそこに居る意味、等々である。作者の言葉を要約すると「自分に興味はないし、個人写真を並べることに意味はないが、他人と触れ合った私の人生を一度振り返ってみたかった」ということであった。私はこれらの言葉に、作者の強い意志が感じられた。作者にとって、すべての行動は肯定されて当然なのだ。自分に興味を持たないのは難しいことだが、作者はそれをやってのけている。その証拠に、写真やポートフォリオには裸体やそれに準ずる作者の姿もあった。どんな姿をどこにさらしても、作者にとってはなんの問題でもないのである。
 作者はこの展覧会を通じて、人間の素晴らしさを伝えていると私は感じた。私たちは、日常で起こる事象の嵐のなかで生活をしている。自分の身に起こるさまざまな出来事に喜怒哀楽を感じて翻弄されたりもするし、意味のないことをするときもある。人間の感情や行動の確実な観測は不可能に近い。しかし、作者のように行動の一瞬を切り取った写真に取り囲まれても、構えずに座っているその自然な姿の「私」を常に忘れないでいれば、自分や他人のどんなことも受け入れられるのではないだろうか。展覧会の題名である「i.m.y.m.e.」は、英語で自称を表すときに使う「I.My.Me」を意味すると考えられるが、これにはたとえどんな状況に置かれていても、自分のことすべてを肯定しようという作者からのメッセージが込められているのだ。今回の展覧会の情景と題名は、私の心の深いところで強く残った。(内藤航)

T+pic


「宇宙(よかろう)」展 鈴木沙織、中村純典 2011年9月26日~2011年9月30日

IMG

展覧会「宇宙(よかろう)」展が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2011年9月26日~2011年9月30日
出展者:鈴木沙織(博士前期過程芸術専攻日本画1年)
    中村純典(日本画OB)

生意気を言える体力も残っていません。
気がついたら年をとっていました。

最近疲れがとれません。
寝ても食べても風呂に入っても相応に疲れます。

横になって、無為に過ごすのが良いようです。

T+review

キャンバスに描かれた世界たちをのぞいてみると、その中では色がにじみ、さまざまな色彩が互いに混じり合って、ぼんやりした記憶のような印象を受ける。大きすぎず、そして強すぎないサイズの画面たちが並ぶ展示風景は、まるでくるくると切り替わっていく、心の中の風景のようだ。
 向かって左側の作品群は、鳥居や、狛犬のような動物が描かれているものがあり、神社のような日本的なイメージを感じさせる。また、作品群全体にわたって朱色や緑青のような緑色が用いられているので、描かれているものがにんじんなど必ずしも日本的なものではないパターンでも、神社的な雰囲気を強めている。この作品群は、正方形のキャンバスの中に正方形で箔を押されているため、一つの画面の中にいろいろなシーンが存在しているように見え、その中から浮かんできたあるシーンがクローズアップされているように表現されている。しかも、主として描かれているものの周りだけがぼんやりと明るく、まさに輪郭のはっきりしない記憶のようである。漠然としているがいつのまにか、確かに私たち日本人の心に存在するもの、この場合は神社であるが、それが浮かび上がる様子を伝えていると感じた。
 右側の作品群は、左側の作品と印象が似ている。つまり、小さなころに見た風景を思い出せるような作品たちだ。しゃがんで池をのぞき込んでいるような視線で描かれたハスの花。低い目線から見上げて描かれた、空にその姿をくっきりとさらす電信柱。見たことはないはずなのに懐かしい、そして少しさみしさも感じさせる景色たちである。この作品を観て感じるさみしさは、幼いころ夕方になると感じていたさみしさに似ている気がする。家へ帰らなくてはいけない切なさ、知らないものに対する小さな不安を思い起こさせる。
 これらの作品のぼんやりとくすんだ色彩は、はっきりとはしていないが心に留まっている懐かしいものの印象と近く、それを浮かび上がらせてくれる。(岡野恵未子)


「ノート」 平野春菜 2011年5月16日~2011年5月20日

展覧会「ノート」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2011年5月16日~2011年5月20日
出展者:平野春菜(芸術専門学群構成専攻3年)

写真展示

T+review

白い壁に、9枚の写真が掛けてある。遠くから見ると全て真黒で、何のことやら分からない。そんな訳はない、写真なのだから、何か写っているはずだと、吸い込まれる様に近づいていって、一枚一枚じっと見ると、白っぽい煙みたいなのや、何か分からない、言い様のないものが、写っているのか、写っていないのかといった微妙さで、しかし、確かにあるのである。ここまで思いついたとき、わたしは思わずどきりとした。目の前にある9つの写真は、9つの空間ではないだろうか。
 黒という色には、思いがけない奥行きがある。夜になって目を瞑ると、わたしの眠っている部屋の天井や壁といったものは、もはやなくなってしまって、ただ深い暗闇が、どこまでも続いている様に感じられる。そういう感覚が、これらの写真にはある。白い壁に掛かっている9つの写真は、その果てしない空間に一体何を孕んでいるのやら、考えるのもおそろしい。何があってもおかしくない、無秩序な、無気味な奥行きをもった空間である。茫茫たる空間の奥底から、ぼんやりと現れるものは何であろう。そうして、この空間の正体は。
 展覧会名である「ノート」、noteという単語には、メモ、記録という意味がある。これら9枚の写真は、一体何の記録なのか。それはおそらく、作者の深い心の様子であろう。はっきりした心象となる以前の、意識することさえない様な、混沌の記録。もしそうであるのなら、そこに写っているものが、一体何なのかということは意味がない。それは誰にも分からない。あざやかな心象の、もっと深いところで、もやもやと、ゆらゆらと、ちらちらとしている、何だか分からないものを、一瞬の光が捕らえる。記録という冷静な態度で、自分の心の奥底を覗くまなざしが心強い。
 などといろいろ思ってみても、果てしない黒色の空間は、やっぱりわたしには不安である。こうして見つめたまま、二度と目を離せない様な感じがする。本作品を見るのと同じ様な感覚を、他でも味わう様な気がすると思ったが、それは、ひとの目ではなかったか。わたしは9枚の写真を見ているつもりが、いつのまにか、作者の眸を覗いている気がした。(金沢みなみ)


「POTA」 貝塚珠季 2011年5月9日~2011年5月13日

展覧会「POTA」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2011年5月9日~2011年5月13日
出展者:貝塚珠季(芸術専門学群デザイン専攻3年)

家具を溶かしました。

T+review

まだ五月だというのに昨年の夏の暑さを予感させるような気候がムワリと身体に纏わりつくような日。度の合わない眼鏡と溶け出した家具。人を気だるい気持ちにさせるには最高の組み合わせだ。
ぼやけた風景の中で、わたしの目前にある赤い時計と赤い椅子は、溶けていたのだ。本当に。夢じゃなくて。妄想じゃなくって。
「混乱」の一言では片付けられない人智の及ばぬ出来事が次々に起きて、日々ふつうと思ってきた何もかもが、ジェンガが崩れる時みたいに呆気無く壊される。アッと呟いて立ち尽くす間に、むしろ事後の目前の物事のほうが本物のふつうなのでは?なんて観念して錯覚してしまうくらい鮮やかに。私たちの生きる地球上では、願ってもいないのに、そういうことが時々起こる。今日の光景も、きっとその種の事変に違いない。
モンドリアンのコンポジションのような色合いをしたテレビや鉢植えやテーブルやその上の灰皿もしゅわしゅわと溶け出していた。溶け出す世界を見つめながら、人は何を思うのだろう。溶けちゃったから新しいのを買っちゃおうとか。誰かに要らなくなったものをもらおうかなとか。でも、悪くないかも?これが日常でも。やっぱり無理かも!毎日この調度品に囲まれて生活するのは。とか。
そうやって私たちは毎日多かれ少なかれ、小さな選択をして生きている。小さな選択が紡がれて生活は繰り広げられ、世界は作られているのかもしれない。だから、ある部分に支障があると、続く部分もすべて途絶えてしまう。そういうことが急に起きた時のために、普段から、様々な状況やストーリーを想像して、イザというときのために備えておくのは大事なことかもしれない。想像され得る変動の一つを、彼女は忠実に再現してくれたのだ。(辻真理子)

POTA