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「かくかくしかじか」 大島玲子 2012年11月12日~2012年11月16日

展覧会「かくかくしかじか」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2012年11月12日(月)~2012年11月16日(金)
出展者:大島玲子(構成専攻総合造形領域4年)

どうもこんにちは、私です。

T+review

 
 ギャラリーにぽつんと置かれたモニターから、何気ない日常の一コマが絶えず流れている。わたしはひとりモニターの前に立ちながら「自分」をつくりあげる日々の行為を淡々と見詰める展示者の眼差しを感じていた。
 モニターの中では寝て、起きて、新しい一日が始まるというサイクルがただひたすら繰り返される。そう、全世界の誰もがこのサイクルを繰り返し生きている。そしてそのサイクルに付随する「洗う」という行為は、わたしたちの生活に直結する行為ではないかと考えた。ここに何か示唆的なものを感じた。
 一日の終わりに身体を清め、生きる為に必要な食物の摂取に使用した道具を清め、それを噛み砕いた口を清める。
 その行為はまるで、一度ずつ丁寧に「自分」をリセットしていくみたいではないか。
 「自分」とは決してひとつの個体として留まらない。常に変化していく。何の変わりもない日常の中で淡々と変化していく「自分」を探し、肯定し、その変化を受け入れることができたとしたら、そんな「自分」を好きになれ、愛することができたとしたら、わたしたちがいま生きるこの世界はほんのすこしだけ鮮やかに色づくのかもしれない。(太田夏希)


「Inter-surface」高橋大地 2012年10月29日~2012年11月2日

展覧会「Inter-surface」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2012年10月29日(月)~2012年11月2日(金)
出展者:高橋大地(構成専攻総合造形領域3年)

どこまでも露出し直面する(しかしまた往々にして見過ごす)現実と、「想像」によって補完せずには触れ得ない現実に関心があります。

T+review

―露わになった現実から目を背けること。
  隠された現実を知ろうともがくこと。―(展示者のメッセージより)

鏡、蛍光灯、コード、地図。どれも幾度となく目にしているものであるにもかかわらず、何故か胸騒ぎがした。大変なところへ足を踏み入れてしまった、そう感じたことをはっきりと記憶している。
ギャラリー入口正面に展示されていたのは≪reflection/emission≫。鏡に取り付けられた蛍光灯を見てダン・フレイヴィンを思い起こした人も少なくないだろう。しかし、両者の“光”は決して同じ意味合いを含んではいない。展示者の蛍光灯の光はあくまで日常的に使用する道具でしかない。作品の前に立つと嫌でも鏡に映った自分の姿が目に入り、思わず顔を背けた。
その左に位置するのは、≪blind≫と題されたストライプ状にローズレッドのアクリル絵の具が塗られた鏡。映り込む世界が見え隠れする。すべてを捉えることはできない。冒頭に並べた言葉-露わになった現実、隠された現実-が頭を過る。
右端にはキャンパスに埋め込まれた多数の電球と天井に伸びるコード。まるでキャンパスから生まれ、懸命に生き、それから天に昇ってゆく生命体のような印象を受けた。生きている、そして、死んでゆく。それは永遠に変わらない事実でありながら、私たちが目を背けている現実でもある。

左端には、着色された山と、福島の地図。
私たちが知らなければならないこと、知りたいと思っていること
忘れてはならないこと、忘れてしまいたいこと
光が日常で使われること、暗い部屋で震えたこと
何かしたいと思ったこと、何もできなかったこと
たくさんの命が失われたこと、今を生きているということ

人は自分の信じたいことだけ信じ、見たいものだけ見る。取捨選択されたそれぞれの現実を生きている。
偽りの現実と本物の現実。
苦しくても良い。必要なのは偽物ではない。
ギャラリーを出るといつもよりどこか重々しく、しかしはるかに鮮やかな日常が待っていた。(菊池美里)

Inter_surface


「POP展」 幣島正彦、柴間智恵子 2012年10月15日~2012年10月16日

展覧会「POP展」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2012年10月15日(月)~2012年10月16日(火)
出展者:幣島正彦(美術専攻洋画コース3年)
    柴間智恵子(美術専攻洋画コース3年)

POPの展示をします

T+review

展示を見に行こうとギャラリーに向かうと、窓ガラスにぐるりと折り込みチラシが敷き詰められている異様な光景に思わずぎょっとさせられた。そして「POP展」という展示名から展示の内容を想像しながら中に入ると、待ち受けていたのは文字通り普段の生活で見慣れたPOP広告。それが壁一面に並べられている。しかしそれらに記されているのは、通常のように商品の名前や特徴ではない。たとえば、「『自分が情けなくなる』後輩のしっかりした態度 税込 498円」「『あ!…くる…かも…』地震直前の感じ 税込 1580円」など…。感情や記憶、習慣といった、本来ならば値段をつけることのできないものたちが、POP広告という姿で私たちに話しかけてくる。
それらの言い回しにクスリとさせられたり、ある感覚が見事に言い表されていて思わず共感したりしながら眺めていると、一つ一つの広告を読むことだけに終始してしまいがちだ。しかし、そうしているうちに楽しさだけではなく何かじわじわとした違和感を覚える。この感覚は何だろうか?そこでふと気付く。ここで不思議な感覚になるのは、POP広告になりえない言葉がPOP広告になっているからだけではない。POP広告になることによって、すべての言葉の強さが均等化されてしまっているからだ、と。
あの独特の赤い字体や黒い枠線など、まさに代表的な「POP広告」の要素が使われている言葉たち。POP広告というかたちで表現されたこの言葉たちは、すべて同じ字体ですべて同じテンションで記されている。しかしもちろん、人が普段発する言葉はこのように一様なものではない。伝えたいという強さやまじめさなどといった伝え方が、その時その時によって変化するものであろう。そのように自由に動き回る言葉達を押さえつけてPOP広告という形にはめ込んだ結果、言葉が持つ重さは均等化されている。感じた不思議さは、強いはずの言葉も弱いはずの言葉も伝え方がそろっている違和感だったのだ。(岡野恵未子)


「他人恋」 清水衿沙 2012年10月9日~2012年10月12日

展覧会「他人恋(ひとごい)」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2012年10月9日(火)~2012年10月12日(金)
出展者:清水衿沙(構成専攻総合造形領域4年)

映像作品を展示します。

T+review

ギャラリーに入ると、がやがやとした人の声が聞こえてくる。壁に映し出された映像の画面は10ほどに分割され、それぞれの中に人々が映っている。私はその映像から、なんとなく柔らかい雰囲気を感じた。なぜなら1つの画面の中に見える人数はそれぞれ2人ずつ―男子1人、女子1人―そう、全て恋人たちの映像なのである。ご飯を食べる二人もいれば、テレビを見つめたりパソコンを眺めたりする2人もいる。そしてこれらの映像は基本的に、彼らの世界をそっと背後から見ているような視点で撮られている。まるで博覧会を見ているように彼らと私たちの間には隔たりがあるのだ。その距離感は撮り方の問題だけではなく、「恋人」に抱きがちな私たち第三者の感覚かもしれない。
 ところで、作者がこの展示によせて語った言葉がある。「ハッピーエンドのその後は、/どれも平凡で、/退屈で、/愛おしい。」ここでいうハッピーエンドとは、何なのだろう。ある二人が友人関係であるという認識が終わり、「恋人という関係が成り立った時」?しかし、「恋人」という関係、それはなにをもって成立すると言えるのか?
「恋人」とは不思議なものだ。好意を持つから一緒にいる、という構図は友人の関係となんら変わらないのに、いつの間にか「恋人」になったと自他ともに意識するようになる。その「恋人」になったという区切りは実はとてもあいまいで、なんなら存在するかどうかも分からない。それゆえ「ハッピーエンド(=恋人関係の成立)」の後は、「平凡で、退屈」。周りの世界の構成員が変わったわけでもなし、人間関係の構図が変わったわけでもなし、世界のルールが変わったわけでもないからだ。しかし、いつの間にかハッピーエンドを迎えた恋人達にとってはそんな日常の一つ一つがたまらなく「愛おしい」ものに感じられていくのであろう。映像の中の恋人たちは、それぞれの「ハッピーエンド」を迎えてからどれだけの「愛おしい」日常を積み重ねてきたのだろうか。第三者の私たちにはその今までの日常を、そして今の日常を知ることはもちろんできない。できるのは彼らのしぐさから、会話から、その愛おしい日常を想像することだけなのである。(岡野恵未子)

hitogoi


「開放的マスターベーション」 小山真和 2012年9月24日~2012年9月28日

展覧会「開放的マスターベーション」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2012年9月24日(月)~2012年9月28日(金)
出展者:小山真和(美術専攻洋画コース3年)

まるで排泄的・自慰的ともいえる私の制作行為。空想に浮かぶ人の気配や期待・願望・祈りを具現化してみる。
制作によって救われればと思うばかり。

T+review


 目、目、目、目、
 あらゆる目がわたしを見下ろしている。何かが欠落したモノたちが、わたしを見下ろしている。この異様ともいえる空間の中で、ただなにひとつ欠落していない自分のこの身体は、異様なほど不自然だった。

 ガラス一面にはりついた虚ろな片目に迎え入れられ、顔のない鮮やかな色彩の身体に頭上から見下ろされていると、何だか妙な気分になってきた。苦しいほどに喉がつっかえ、奥の方からどろりとした何かが溢れ出してきそうになる。わたしたちが生きるこの世界には穢れのない、真に美しいものなど存在しない。誰しも一度は絶望と、救いようのない現実と対面する。一般の美的観点からすると「美しく」ない負の感情は、決して表へ出してはならない、話してはならない、見せてはならない。しかし、それらをいつか開放し自分のなかから吐き出さない限り、永遠に暗い影となってわたしたちのうしろをついてくる。そうして思った。左手の壁の継ぎはぎだらけの男や女のように、現時点で「自分」と呼ぶこの身体は、これまでの「自分」をばらばらに切り離し、その断片を繋ぎ合わせて出来ているのかもしれないと。

 展示者は制作行為自体が排泄的、自慰的行為だと述べている。ならば、そうして吐き出された「モノ」=「作品」を観て、気がつけば幾度も足を運んでいたわたしも恐らく同じ排泄的で、自慰的な行為をしていたのかもしれない。
(太田夏希)

開放的マスターベーション2