「no hint」 関川航平 2012年7月2日~7月6日

展覧会「no hint」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2012年7月2日~2012年7月6日
出展者:関川航平(美術専攻特別カリキュラム版画4年)

水か光をぶちまけます

T+review

ギャラリーの外から中を覗いてみると、ギャラリー内にいる鑑賞者が、きょろきょろとギャラリーを見渡しているのが目に入り、不思議に思って足を踏み入れる。
 中に入って、その鑑賞者の行動の謎が解けた。床上に、コルクでできた銃弾が多数散らばっているのである。また、壁にある飾り棚の上には、その銃弾を打ち出すであろう銃が乗っている。本物ではないとわかっていても、思わずどきりとさせられた。
 中にいた鑑賞者と無言で視線を交わし、改めてギャラリーを観察しようとすると、淡々と流れるアナウンスが耳に入ってきた。きわめて事務的な、女性の声である。「銃を、手に、取ってください。……レバーを、手前に、引いてください。……」どうやら弾の撃ち方を説明しているようだ。
 ひたすら鑑賞者に言い聞かせるようなアナウンスを聞きつつ、銃を見つめる。頭の中では、アナウンスに従って自分がこの銃を撃ったシーンが自然と想像されている。銃を構えて、ガラスに当たらないように、引き金を引いて、そして…。しかし、そこでふと考える。本当に、アナウンスに従って銃を撃つことが要求されているのか?でも、アナウンスと銃が純粋に「展示してある」だけだったら、従わなくていいのでは、いやむしろ従わないべきなのでは?
 展示されたものは「勝手にさわって動かしてはいけない、完成されたもの」であるという思い込みや先入観が邪魔をして、銃を実際手に取るまでに私たちは大きく迷う。「ものを手に取る」という、毎日何百回と無意識に行っている動作をギャラリーで行おうとしているだけで、ひとつの動作にいちいち判断が必要とされるのである。
 ついに「銃を撃ってみよう」と自分に判断を下し、銃を取る。しかし、残念ながら筆者は力が足りず、銃を撃つことはできなかった。銃を棚に戻し、床に散らばった銃弾を見渡す。それは、鑑賞者が自分に判断を下し、「銃を撃つ」という動作の結果の表れだろうか、それとも作者が作為的に置いたものだろうか?どちらにせよ、散らばった銃弾は「誰かはアナウンスに従って実行した」かもしれないことを示し、鑑賞者の実行するかしないかの判断に影響を与えているのは間違いないだろう。(岡野恵未子)


「ヒマリア」 相原郁美 2012年6月25日~2012年6月29日

展覧会「ヒマリア」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2012年6月25日~2012年6月29日
出展者:相原郁美(人間総合科学研究科芸術専攻総合造形領域 博士前期過程2年)

映像と平面作品とインスタレーションを足して割ってみようと考えています。

T+review

ギャラリーの2面の白い壁には、30枚の小さな四角い板が一直線に並べられていた。他には何も見当たらない。ギャラリー内はとても静かだった。30枚の板には、白黒の絵が描かれている。それは連続したひとつの物語だった。
物語は右から左へと向かって展開してゆく。ある少年が馬車に使われていた馬を自由にしたことから物語は始まる。絶望する所有者を尻目に、自由になった馬は駆け出していった。一方、人ごみを抜けた先で少年を待っていたのは、人々から向けられる非難の目であった。少年は、人々の目に囲まれながら次第に年老いてゆく。少年から青年へ、そして老人へと年を経ていった。少年を見ていた人々の顔は、次第に街の街灯へと変わっていく。老人となった彼を取り囲むのは街灯だけであった。そして場面は森へと変化してゆく。自由になった馬は森の中を駆けていた。おそらく少年が老いてゆき、老人となるまでずっと走り続けていたのだろう。森を抜けると馬は静かに横たわっていた。そして何もない大地だけが広がるのだった。
とてもとても長い時間が、この30枚の絵の中に収められていた。物語の断片を見ただけなのに、そのすべてを見てきたような気分だった。場面が移り変わり、長い時間が経過しているが、物語は違和感のない自然な流れでめくるめく展開していた。作品を見終わると、静かな寂しさを感じた。自由の脆さ、命の儚さ、そんなことをぼんやりと考え、壁2面の、30枚の物語を何度も見返していた。ギャラリー内の静かさは作品の雰囲気を引きたてており、そして感慨に浸らせてくれる空間となっていた。ドアを開ければいつもの光景が広がっていたが、ギャラリーの中はそれを忘れさせるような、特別な空間に変化していたのだった。(井上祐里)


「えんじる」 幣島正彦、小山正和 2012年6月18日~2012年6月22日

展覧会「えんじる」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2012年6月18日~2012年6月22日
出展者:幣島正彦(美術専攻洋画コース3年)
    小山正和(美術専攻洋画コース3年)

他人の作品を制作することをテーマにした平面作品の展示です

T+review

えんじる=ある場面、状況などにおいて、ある印象を見る人に与えるよう行動すること。

 本展の展示スタイルは出品者が互いに相手のエスキースやドローイングを元に作品を制作するという一風変わったもの。展示室には紙に描かれた「下絵」の横に、それを元にカンヴァスに描かれた、他者による「完成作」が並べて展示されていた。

 真っ先に目を惹いたのは、奥の壁に飾られた1組の作品だ。ギャラリーの外まで巻き込むような異様な雰囲気を放つそれらは、どっしりと「人間」を待ち構えていた。吸い寄せられるかのように恐る恐る近づいてみると、その見た目には不相応な可愛らしいパンツを身につけた不気味な生物と、元となる幣島さんのエスキースが展示されていた。首から下は痩せこけたヒト、頭部はおそらく脳味噌や筋組織であろう塊から象の鼻のようなものが生えた、なんとも言い表し難い生物が血だまりの上で足踏みしている。エスキースの段階では「完成作」の頭部にあたる部分のみ描かれており、「完成作」の影響からかそれは何となくちぎれた生命体の一部のような印象を受けた。しかし実際は何をイメージして描かれたものなのか、そもそも「何か」を表そうとして描いたものなのか。出品者はモチーフや主題、伝えたいことの段階を相手に任せた上で画面上で遊ぶことをコンセプトにしているが、「下絵」が「完成作」に構想を与えるとともに、「完成作」からも「下絵」に対して明確な印象を与えているように感じた。

 「えんじる」にはもう一つ意味がある。それは「ある役目を務める」ことである。“えんじる”ことは、つまり他者の伝えたい未完のイメージを明確な形で提示する役目を果たすということ。出品者は共に洋画を専攻しているが、その画風やものの見方は全く異なっている。そんな二人が互いに“えんじ”た作品たちは、鑑賞者のみならず作者自身にとっても予想外の印象を与えたに違いない。(菊池美里)


「いすにすわっている」 関川航平 2012年6月11日~2012年6月15日

展覧会「いすにすわっている」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2012年6月11日~2012年6月15日
出展者:関川航平(美術専攻特別カリキュラム版画 4年)

T+review

 「椅子に座る」
 この動作は、私たちが何気なく毎日毎日繰り返し行っているものだ。
その目的は、休むためであったり、授業を聞くためであったり、食事をするためであったり。
結局は何かの目的のためにしているし、はたから見ても大抵はなぜそこにその人が座っているのかが分かる。

 では、なぜあの人たちは
ギャラリーの中、まるで教室のように並べられた椅子に
座っているのだろうか。

 彼らの目の前には先生もいないし黒板もないしテーブルもない。
横の白い壁には、「いす に すわって  いる」と黒いビニールテープで大きく書かれている。
まさにその通りだ。彼らはイスに座っている。

 自分も毎日行っているその日常的な動作”そのもの”を意識するだけで、
何か異様な光景に見えてきてしまう。

 彼らは、「いすにすわる」ことを目的としている。

 動作と目的が一致したとたん、身近な動作が異空間を生み出していた。
しかし彼らは時々動くし、稀に読書をしている人もいる。
ピシッと座る人もいれば、ダランと座る人もいる。
一週間の展示期間のうち一人しか座っていない時もあれば、たくさんの人が座っている時もある。
この変化はごくごく日常的なもので、教室の中と同じ、身近な風景だ。

でも何かがおかしい。

そう、彼らは「いすにすわる」ためにそこに存在しているのだった。


「うさ君展」片岡知紗 2012年6月4日~2012年6月8日

展覧会「うさ君展」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2012年6月4日~2012年6月8日
出展者:片岡知紗(洋画3年)

平面、立体の展示です。

T+review

ギャラリーに入ると、なんとも不思議な生き物たちが私を迎えてくれた。胴体や顔のパーツは丸みを帯び、体は鮮やかな蛍光色。二本足や四本足のもの、目が二つ以上あるもの、奇妙な触角が生えているものなど、その形は個体によってさまざまだ。彼らは一見ポップでキュートだが、その体からは時折脳みそが露出しており見る人をぎょっとさせる。露出した脳には針が数本刺さっていることもあるが、彼らはあくまで無表情であり、そこに痛みはないように見える。

 彼らの多くは、壁に掛けられたキャンバスの中で様々な空間にたたずんでいる。何処とも知れぬ暗闇の中や、街灯に照らされたベンチの上。あるいは、砂漠にどっしりとその体を横たえていることもある。ただ、原則として彼らは活発に動こうとはしない。人気のない空間で、どこか遠くを見つめている。私たちが作品の前に立ち、彼らのその奇妙な姿を見つめていても、彼らは決して私たちと目を合わせない。その視線は、目の前にいる私たちの存在を軽くすり抜けてどこまでも伸びていくように見える。

 さて、キャンバスの中でも十分魅力的な彼らだが、今回は立体として我々の住む3次元空間にも進出している。つるつるとした体に毛糸やフェルトをまとい、展示台の上でやはりどこか遠くを見つめている。その姿は、時にキャンバスの中にいるときよりも魅力的で、一匹一匹が「生き物」として強烈な存在感を醸し出している。吹き出しの形をしたキャプションには「もぐもぐ」「ふりふり」といった擬音が書き込まれ、平面世界にいる時よりも生き生きとして見える。

 奇妙な生き物たちが生み出す奇妙な世界。2次元から3次元へと進出してきた彼らがこれからどこへと向かうのか、まだ誰も知らない。(玉谷研太)