「未定」西脇慶 2012年12月3日~2012年12月7日

展覧会「未定」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2012年12月3日(月)~2012年12月7日(金)
出展者:西脇慶(構成専攻総合造形領域3年)


「まっかだな」 田中あかり 2012年11月19日~2012年11月22日

展覧会「まっかだな」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2012年11月19日(月)~2012年11月22日(木)
出展者:田中あかり(美術専攻洋画コース2年)

「秋のおわりに
まっかな秋の
まっかな恋を
あつめてみたり
おもってみたり
ちらしてみたり
ないてみたり
わらってみたり ね」

T+review

「まっかな秋の/まっかな恋を/あつめてみたり」した展覧会。恋人や、恋愛感情をテーマにした小さな作品達がギャラリーの壁をぐるりと囲んでいる。恋愛とはごくごく個人的で、主観的な感情だが、それが作品のテーマになると、その主観的な感情は「共有」されうるものになるということに気が付いた。

今回の展覧会で特にそれを感じたのは、ギャラリーの中心で起きていた現象だ。ギャラリーの中心では、天井から紐が吊り下げられており、手のひらほどのハート形の色画用紙がたくさん留められていた。そのすぐ下の展示台と床には、同じハート形の画用紙が散らばっている。そのたくさんのハート形には、何枚か言葉がつづられているものがある。鑑賞者が、自由に言葉を書くことができる。特に書く内容は指定されていないが、展覧会のテーマの影響か、恋愛に関係する言葉が圧倒的に多い。それは、(おそらく)意中の人に対する想いであったり、恋の幸せであったり、切なさであったり。ちょっと照れてしまうような、しかし読んでいるとなんだか心温まるような、素直な言葉が鑑賞者の手によって記されているのだ。

この言葉たちは、誰に読んでほしくて書かれたものなのだろうか。書かれたときは、特定の誰かを思って書かれたものが多いだろうが、その特定の誰かだけが読んでくれるものだとは言えない。ギャラリーに展示されている以上、不特定多数の人間が目を通すことは避けられないからだ。しかも、自分の名前が書かれていない画用紙は、ことばの受け手だけでなく、発信者も特定できない存在にする。
匿名であるから、そして誰でも見れる状態にあるから、つづられた言葉は書き手のもとを離れて、独立していく。そして、そのように主を離れた言葉たちは、純粋にその「想い」だけのものになり、作品の一部として他の鑑賞者と「共有」できるものになっていくのだ。

 作者の作品達もそのような役割を持っているだろう。恋愛という、極めて個人的な感情の動きのテーマは、作品となることで「共有」できるものとなる。発信者も受け手も不特定になったそれを見る鑑賞者は、自身とその作品とを照らし合わせ、共感したり自分の気持ちに確信を持ったりするのだ。(岡野恵未子)

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「かくかくしかじか」 大島玲子 2012年11月12日~2012年11月16日

展覧会「かくかくしかじか」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2012年11月12日(月)~2012年11月16日(金)
出展者:大島玲子(構成専攻総合造形領域4年)

どうもこんにちは、私です。

T+review

 
 ギャラリーにぽつんと置かれたモニターから、何気ない日常の一コマが絶えず流れている。わたしはひとりモニターの前に立ちながら「自分」をつくりあげる日々の行為を淡々と見詰める展示者の眼差しを感じていた。
 モニターの中では寝て、起きて、新しい一日が始まるというサイクルがただひたすら繰り返される。そう、全世界の誰もがこのサイクルを繰り返し生きている。そしてそのサイクルに付随する「洗う」という行為は、わたしたちの生活に直結する行為ではないかと考えた。ここに何か示唆的なものを感じた。
 一日の終わりに身体を清め、生きる為に必要な食物の摂取に使用した道具を清め、それを噛み砕いた口を清める。
 その行為はまるで、一度ずつ丁寧に「自分」をリセットしていくみたいではないか。
 「自分」とは決してひとつの個体として留まらない。常に変化していく。何の変わりもない日常の中で淡々と変化していく「自分」を探し、肯定し、その変化を受け入れることができたとしたら、そんな「自分」を好きになれ、愛することができたとしたら、わたしたちがいま生きるこの世界はほんのすこしだけ鮮やかに色づくのかもしれない。(太田夏希)


「ところてんの雨がふる」 松井千夏 2012年11月5日~1012年11月9日

展覧会「ところてんの雨がふる」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2012年11月5日(月)~2012年11月9日(金)
出展者:松井千夏(美術専攻洋画コース3年)

雨は降り続けるから

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「Inter-surface」高橋大地 2012年10月29日~2012年11月2日

展覧会「Inter-surface」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2012年10月29日(月)~2012年11月2日(金)
出展者:高橋大地(構成専攻総合造形領域3年)

どこまでも露出し直面する(しかしまた往々にして見過ごす)現実と、「想像」によって補完せずには触れ得ない現実に関心があります。

T+review

―露わになった現実から目を背けること。
  隠された現実を知ろうともがくこと。―(展示者のメッセージより)

鏡、蛍光灯、コード、地図。どれも幾度となく目にしているものであるにもかかわらず、何故か胸騒ぎがした。大変なところへ足を踏み入れてしまった、そう感じたことをはっきりと記憶している。
ギャラリー入口正面に展示されていたのは≪reflection/emission≫。鏡に取り付けられた蛍光灯を見てダン・フレイヴィンを思い起こした人も少なくないだろう。しかし、両者の“光”は決して同じ意味合いを含んではいない。展示者の蛍光灯の光はあくまで日常的に使用する道具でしかない。作品の前に立つと嫌でも鏡に映った自分の姿が目に入り、思わず顔を背けた。
その左に位置するのは、≪blind≫と題されたストライプ状にローズレッドのアクリル絵の具が塗られた鏡。映り込む世界が見え隠れする。すべてを捉えることはできない。冒頭に並べた言葉-露わになった現実、隠された現実-が頭を過る。
右端にはキャンパスに埋め込まれた多数の電球と天井に伸びるコード。まるでキャンパスから生まれ、懸命に生き、それから天に昇ってゆく生命体のような印象を受けた。生きている、そして、死んでゆく。それは永遠に変わらない事実でありながら、私たちが目を背けている現実でもある。

左端には、着色された山と、福島の地図。
私たちが知らなければならないこと、知りたいと思っていること
忘れてはならないこと、忘れてしまいたいこと
光が日常で使われること、暗い部屋で震えたこと
何かしたいと思ったこと、何もできなかったこと
たくさんの命が失われたこと、今を生きているということ

人は自分の信じたいことだけ信じ、見たいものだけ見る。取捨選択されたそれぞれの現実を生きている。
偽りの現実と本物の現実。
苦しくても良い。必要なのは偽物ではない。
ギャラリーを出るといつもよりどこか重々しく、しかしはるかに鮮やかな日常が待っていた。(菊池美里)

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