「しあわせもよう~日本画4人展~」 勅使河原香苗、平良希望、富澤笑、石井さつき

展覧会「しあわせもよう~日本画4人展~」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2013年5月7日(火)~2013年5月10日(金)
出展者:勅使河原香苗(筑波大学院博士前期課程芸術専攻日本画領域1年)
     平良希望(筑波大学院博士前期課程芸術専攻日本画領域1年)
     富澤笑(筑波大学院芸術専攻日本画領域研究生)
     石井さつき(筑波大学美術専攻日本画領域2013年度卒業生)

あなたが普段幸せを感じるのはどんな時ですか?幸せというのはどうやら一様ではなく、一人一人違う様です。私達は同じ日本画で同じ「幸せ」をテーマに描いたのですが…そんな4人のしあわせもよう

T+review

4人の作者が、それぞれに「しあわせ」を表現した今回の展覧会。作品たちを見てみると、それぞれに独自のモチーフが使われて「しあわせ」を表現している。しかし、それらは可愛らしさであったり、懐かしさであったり、柔らかさであったりと、なんとなく同じような方向に行きついているように感じるのはどうしてなのだろうか。「しあわせ」を表現すると、この方向性は避けられないのだろうか。

いや、もっとたくさんの「しあわせ」の表現があるはずである。

「しあわせ」の方向性が似ているのは、「『しあわせ』を表現する」ことが「『しあわせ』が伝わるように表現する」ことになりがちだからではないだろうか。つまり、しあわせな出来事や記憶などの、「しあわせの結果を表現している」のではないか。
手あかにまみれた言い回しだが、「しあわせ」に行きつくまでには、困難や苦悩がもちろんあるだろう。「しあわせ」を表現する行為には、このような「しあわせの過程」を表現するという形もあるはずである。それが「しあわせ」な雰囲気をまとっていなかったとしても。

「しあわせ」な雰囲気を表現する、「しあわせ」なイメージを表現する。このような形になってしまうのは、個々人に基づく過程よりも、結果としての「しあわせのイメージ」のほうが、だれとでも共有しやすいと無意識に感じているからかもしれない。

今回の展覧会で、「しあわせ」というものを表現する難しさを、改めて感じた。
それは、「絆」「愛」を表現する難しさにも似ている。ついつい、過程を表現するよりも結果を表現しがちになり、結果、個々の存在感が薄れてしまうような気がするのだ。(岡野恵未子)

T+用


「のら」 本江七緒 2013年4月30日~2013年5月2日

展覧会「のら」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2013年4月30日(火)~2013年5月2日(木)
出展者:本江七緒(博士前期過程芸術専攻彫塑領域2年)

植物の絵と木彫のマグロを展示する予定です。3日間ですが、お越し頂けたら幸いです!よろしくお願いします!

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繊細であるようで、ざっくばらんな光景がそこに広がっていた。
 精密に描かれた? いや、その境界線も曖昧な、それでいてどこか不思議な絵とぼんと唐突に表れたマグロに視線を奪われ、思わずやられたと感じた。
 この花、この木、この建物を・・・それらを一度目にしたことがあるような、ないような・・・記憶を辿るのだけれど明確に思い出せない。不思議。不思議。としか言いようがないのはもうお手上げだ。
 しかしこのマグロ、生きていたことがあるのだろうか。不思議な絵に囲まれたなか異様なまでの存在感を放つそれはどうぞ切ってくれと言わんばかりの眼差しで、しかし、目を合わせてくれない。展示者の執着心でもあるような眼差しがリアルに感じられる場所と、ふっと気を抜いたような空気が同居する作品たちやその展示空間にふと不安を覚えてしまった。だが不安定ななかにも確かにヒトがつくったという温かみが残っていた。それを感じたとき、何故か「みんなちがって、みんないい」という懐かしい詩を思い出した。
 この不思議な空間に同居する作品たちはみんなちがう。そうありながらなにかひとつの、なんと表現したらいいのかわからないが、おおきな流れのなかに、それは展示者という媒体なのだろうか、そういうなかに在るのだと、そう感じた。(太田夏希)

のら


「大脱走。」 太田夏希 2013年4月22日~2013年4月26日

展覧会「大脱走。」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2013年4月22日(月)~2013年4月26日(金)
出展者:太田夏希(美術専攻日本画コース2年)

「わたし」が「私」から逃げ続けておよそ20年……
これはそのすべてです。

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その空間は「彼女」の世界だった。
ギャラリーに入ると正面入り口に「順路」と書かれた先に梱包材に包まれた空間がある。壁には落書きから自画像のデッサン、ラフに描かれた顔のスケッチ、幼少時代の絵日記など、過去から現在までの作品がごちゃごちゃと展示されている。そのせいだろうか、一つ一つの作品の時間軸が狂って見える。そしてそれらは上下逆さに吊るして展示してあり、妙に不気味な雰囲気を感じる。時折天井から吊るしてあるカウンターが空中で揺れているのがチラチラと視界に入る。
大脱走 − 彼女が20年間逃げ続けてきたものは彼女自身だ。自分を描くと同時に自分から逃げてきたのである。

現在の「わたし」を構成し、今もその中で「わたし」を監視し続ける「私」を吊るし上げ、ひとときでもいいから「私」から逃げ出したいと想った。(展示者談)

逆さの世界に一枚だけ正面を向いているのは《モナリザ》だが顔の部分がないパネル。その作品は彼女の心情を物語っているようである。吊るされた彼女の顔たちが、まるで私たちのアイデンティティの喪失を誘発してくるかのように見つめてくる。自分が自分である意味とは、「わたし」とは一体誰なのか。自分が何者か分からなくなったときの恐怖は、子どもの頃に迷子になり家に帰れなくなった時の感覚と似ている。そこにあるのは、泣きたくなるような現実だ。(高橋和佳奈)

2013.04.22-大脱走


「感覚実験演習Ⅰ(芸術専門学群開設)」 安酸利倫、大脇聡史 2013年4月15日~2013年4月19日

展覧会「感覚実験演習Ⅰ(芸術専門学群開設)」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2013年4月15日(月)~2013年4月19日(金)
出展者:安酸利倫(美術専攻特別カリキュラム版画3年)
    大脇聡史(美術専攻洋画コース3年)

視覚や聴覚といった感覚は、それぞれが独立したものではなく、連動して作用するものである。スライドを用いて実験的に、諸感覚の関係性を探る。

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「『みてはいるけどみえてない』には個人差がある。そのひとの年齢や趣味嗜好などによって世界のみえ方にはムラがあるのだ。」(穂村弘『絶叫委員会』筑摩書房、2010年、99頁)

まるで授業のようなタイトルの今回の展示によって、「世界のみえ方にはムラがある」ことに改めて気づかされることになった。
ギャラリーの中では、大量の写真が次々と切り替わるスライドショーが投影され、大音量で様々な音声が流れている。このとめどない情報の放出を、どうやって受け止めればいいのだろうか?
スライドショーをぼんやりと眺めていると、一枚一秒と続かない画像の切り替わりの中で、イメージが強く目に焼き付くものと、そうでない画像があることに気付く。それは勿論、その画像自身の持つインパクトの強さも関係しているだろうが、もっと個人的な原因が大きく関係していると思う。眼に焼き付くものは、それぞれの過去の経験や、好き嫌い、憧れなどに関係したものではないだろうか。それらは個人が今までに蓄積してきたものである。一人一人が背負うそのような様々なものによって、淡々と流れる画像の波には強弱が生まれる。鑑賞者の前で、自身のバックグラウンドに合わせて画像の波は伸び縮みする。

また、大音量で流れる音声も、耳に残るものと残らないものがある。というより、「聞こえる音」と「聞こえない音」があると言った方が正しいかもしれない。
携帯電話のバイブレーション、電動ドライバーの作動音、学校のチャイム、筆者に聞こえたのはこのような音であるが、あの中では「聞こえなかった」音があったのかもしれない。

個人の背負うものが、今見ているものの感じ方を変える。画像の量やサイズ、音声の音量などといった鑑賞者に与えられる情報は、誰に対しても平等にされているのに。
「見えるもの」「見えないもの」「聞こえるもの」「聞こえないもの」。私達には、これらに対して感覚を研ぎ澄ますことが必要とされているのではないだろうか。「見えないもの」が重要な場合だって沢山あるのだ。確かにこの展示「感覚実験演習Ⅰ」は、そのことに気付かせるという授業だったのかもしれない。(岡野恵未子)

2013.04.15-


「ガキ」 陳泳勳 2013年4月8日~2013年4月12日

展覧会「ガキ」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2013年4月8日(月)~2013年4月12日(金)
   9:00~18:30(最終日は17:00まで)
出展者:陳泳勳(大学院芸術専攻プロダクトデザイン領域2年)

私は、台湾科技大学で、プロダクトデザインを専攻している大学院二年生です。日本の文化とデザインを体験するために、去年の九月から、筑波大学の交換留学生になって、日本に来ました。初めて習う言葉や文化、ルールの中で暮らしていると、幼稚園の頃を思い出します。この春、帰国するにあたり、展覧会「ガキ」にて、台湾で制作した作品を展示します。是非見に来てください。よろしくお願いします。

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「日本で初めて触れる文化やルールによって、まるで自分が幼稚園生に戻ったような気分になった」と、あいさつ文で述べている作者の思いは、展覧会名である「ガキ」にも表れている。今回展示された作品は台湾で制作していたものが多いそうだが、異文化の地で自分が過ごしていくうちに、自分の、台湾で生まれた作品がこの地でどう受け止められるのだろうか、ということが見たいと感じたのではないだろうか。
ギャラリーの中央につりさげられている大きなポートレイトには、おそらく作者と思われる人物が写っている。口を引き結び、こちらに向かってすっと立っている男性の姿からは「どうですか?」という声が聞こえてきそうだ。

言葉や文化の違いはあれど、作者の思考は、作品を通して鑑賞者にちゃんと伝わってくる。
 実物または画像として展示されている作品たちは、どれも非常に隙がなく、丁寧なものだった。とても滑らかに削り出されたまな板。その優しい曲線とぴったり合うように作られたスプーンやフォーク、ナイフ。片手だけで、針先に保護キャップがはめられる注射針。その丁寧な作品たちからは、「こういうものを作りたい」というアイディアを作者が洗練させていった過程が感じ取れる。そして、その理想像と作者の造形力が無理することなくつり合って、完成度の高いモノが生まれている。

また、作品のアイディアからは優しさや遊び心が感じられ、作者は自身の体の動きや無意識の部分への想像力を駆使して生活しているのだろうな、という印象を受けた。(岡野恵未子)

gaki