「他人恋」 清水衿沙 2012年10月9日~2012年10月12日

展覧会「他人恋(ひとごい)」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2012年10月9日(火)~2012年10月12日(金)
出展者:清水衿沙(構成専攻総合造形領域4年)

映像作品を展示します。

T+review

ギャラリーに入ると、がやがやとした人の声が聞こえてくる。壁に映し出された映像の画面は10ほどに分割され、それぞれの中に人々が映っている。私はその映像から、なんとなく柔らかい雰囲気を感じた。なぜなら1つの画面の中に見える人数はそれぞれ2人ずつ―男子1人、女子1人―そう、全て恋人たちの映像なのである。ご飯を食べる二人もいれば、テレビを見つめたりパソコンを眺めたりする2人もいる。そしてこれらの映像は基本的に、彼らの世界をそっと背後から見ているような視点で撮られている。まるで博覧会を見ているように彼らと私たちの間には隔たりがあるのだ。その距離感は撮り方の問題だけではなく、「恋人」に抱きがちな私たち第三者の感覚かもしれない。
 ところで、作者がこの展示によせて語った言葉がある。「ハッピーエンドのその後は、/どれも平凡で、/退屈で、/愛おしい。」ここでいうハッピーエンドとは、何なのだろう。ある二人が友人関係であるという認識が終わり、「恋人という関係が成り立った時」?しかし、「恋人」という関係、それはなにをもって成立すると言えるのか?
「恋人」とは不思議なものだ。好意を持つから一緒にいる、という構図は友人の関係となんら変わらないのに、いつの間にか「恋人」になったと自他ともに意識するようになる。その「恋人」になったという区切りは実はとてもあいまいで、なんなら存在するかどうかも分からない。それゆえ「ハッピーエンド(=恋人関係の成立)」の後は、「平凡で、退屈」。周りの世界の構成員が変わったわけでもなし、人間関係の構図が変わったわけでもなし、世界のルールが変わったわけでもないからだ。しかし、いつの間にかハッピーエンドを迎えた恋人達にとってはそんな日常の一つ一つがたまらなく「愛おしい」ものに感じられていくのであろう。映像の中の恋人たちは、それぞれの「ハッピーエンド」を迎えてからどれだけの「愛おしい」日常を積み重ねてきたのだろうか。第三者の私たちにはその今までの日常を、そして今の日常を知ることはもちろんできない。できるのは彼らのしぐさから、会話から、その愛おしい日常を想像することだけなのである。(岡野恵未子)

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