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「つながる。」石島朋佳2016年3月14日~3月18日

展覧会「つながる。」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2016年3月14日-3月18日
出展者:石島朋佳(芸術専門学群美術専攻日本画コース、4年)

モデルを依頼、描く、
モデルに次のモデルを選んでもらう。
この繰り返しでバトンをつないできた
『モデルリレー』。
このリレーで出会った筑波大学の
学生さんを紹介します。(デッサン・日本画)


T+review

 「一秒に一人のペースで誰かと知り合ったとしても、一生のうちに全人類と知り合いになることはできない。」という話を聞いたことがある人がいるかもしれない(そしてたいていこの後に『だから人との出会いは奇跡みたいなものである』と続くけれど、私はこの言い回しは個人的にあまり好きではない)。世界には70億人の人間がいるが、人の一生のうちではその中のほんのわずかな人間としか知り合うことができない。逆に言えば、世の中の何十億という人間は、お互いに見ず知らずの他人であり、普段は何の関わりもないただの有象無象の群衆なのである。
 だからその群衆の中から、ひょいと急に一人の特定の人間の人格が浮かび上がってくると、広い砂浜の中から小さい貝殻を見つけたときみたいな、何とも言えない気持ちになる。今回の展示はそれに似たものが感じられた。たくさんの人物画の展示である。描かれた人は様々な学群の筑波大学の学生である。同じ筑波大学生であっても、普通であれば道ですれ違っても気にも留めないような、ほとんど縁のない人たちである。作者はそのような人たちに対して、絵のモデルというだけでなく一人の人間として、それぞれ真摯に向き合って作品を制作したのであろう。展示室内には作品の他にも、モデルをしてくれた人の紹介文が収められたファイルもおかれていて、作者の人間に対する関心の強さをうかがい知ることができた。
 興味深いのは「モデルリレー」というモデル役の決め方である。モデルの人がその人の知人の中から次のモデルを選び、その次のモデルの人がまた選び……という風に次々とモデル役のバトンを渡していく方法である。これがそのままタイトルの「つながる。」にもなっていると思われる。一人の人間の持つ他人とのつながりは限られているけれども、自分の知人からさらにその知人へとどんどんつながりを伸ばしていくと、普段意識されないたくさんの人を知ることができ、そしてそれぞれ違った人格を持って日々暮らしていることに気づかされる。集団に埋もれがちな個を感じることができるよい機会であったと思う。(市川太也)

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「なにかにつけて」田中あかり、他2016年2月8日~2月12日

展覧会「なにかにつけて」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2016年2月8日-2月12日

出展者:田中あかり(洋画M1)

昨日は
つめたい風につけて
遠いあなたをおもいだし
今日は
記念の日にかこつけて
秘密の約束をさがしていて
明日は
とっておきを身につけて
外に出る

なにかにつけて


T+review

きゅん。乙女心とはこういうものを言うのだろう。彼女の展示はいつも心温まり胸にときめきを与える。恋心をテーマに描く彼女はキャプションの一つ一つにさえピンクのリボンをあしらい、乙女心満載の展示を作り上げた。本展覧会ではいつもは愛らしい少女達の表情の多くが覆われてしまっているのが特徴だ。何かにつけて行動してしまう彼女たちの精一杯の照れ隠しとでも言うのだろうか。ハートを形作るキャンバス、ハートで隠した顔、表に出てくる可愛らしさとは裏腹によく見ると黒や毒々しいピンクがまるで溶け出したように画面に乗せられている。ときめきを与える反面、不安を覚える要素も見え隠れする。乙女の気持ちは複雑なわけだ。
古典の巨匠も恋愛がテーマの絵画を描いたが、彼女の描く絵はそれらとは異なる。今を生きる彼女が描くのは生きた感情である。それは古典絵画を見た時の高尚な気持ちになるような一歩引いたところにあるものではない。つい目を背け、けれどちらっと見てしまいたくなるようなそんな恋愛感情なのだ。見たい、けれど見たくない、そんな感情を覚えた頃には彼女の世界に引き込まれてしまっている。

きゅん。ドアノブにかけてあるハートにまでときめいてしまった。

(古屋花子)

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「日本、ニホン、nippon」駒田六花2016年1月19日~1月22日

展覧会「日本、ニホン、nippon」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2016年1月19日-1月22日
出展者:駒田六花(デザイン専攻建築領域2年)

T+review

生け花において草木の役割とは大地に根をつけて生きたつ草木の有機的バランスを描いて完結する生命の消長をあわすことである。「消長」とは物事が衰えて消えるか伸びて盛んになるか、というなりゆきのことであるが今回の作品「日本 ニホン nippon」で使われていた材料は枯れ木であった。しかし不思議なことにこの作品には圧倒的な生命力を感ぜざるおえなかった。小さいギャラリーに、大量の枯れ木を使い形態づくられた「なにか」は観察し続けるうちに大きな動物のようなものに見えてくる。その枯れ木で形態づくられた周りには、2本の青と赤のホースが有機的に絡み付いている。この作品を「動物」と捉えるのなら、そのホースはおそらく動脈と静脈だろうか。そうとらえると、枯れ木は命の終結を感じるが、絡み付く赤と青のホースは命の伸びやかさや生命力を感じ、それがなんとも絶妙な緊張感をもってギャラリーを支配していたように思える。すると窓ガラスに大きく貼られた「日本 ニホンnippon」という題名にも目がついた。「ニホンらしさである木材」「ニホンのホース」。きっと偶然ではないだろう。では「nippon」とはなにを指しているのか。海外からみた日本の姿なのか。いや、もしかしたらただ言葉遊びかもしれない。私は答えを見つけることができなかった。しかしいずれにしても大量の枯れ木に絡み付く2本のホースからは得体のしれない躍動感、生命力を感じ、おのずと自らも活気づけられる作品である。今日、都市化が進む一方で負けじと雑草もアスファルトの地面を突き破って芽吹いている。大木ともなると人間の作ったものなど物ともせずに浸食していく。どれだけ人間が鉄とコンクリートで文明を築いたとしても、いつかは木々に覆われ大地に帰ってしまう。それと同じくして人間もいつかは大地へ帰っていく、生命力と反して完結する命の消長をこの作品から学んだ。(下釜 早貴)

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「越えることについて」ツチ屋サユリ2016年1月12日~1月14日

展覧会「越えることについて」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2016年1月12日-1月14日(但し最終日は14:00まで)
出展者:ツチ屋サユリ(総合造形、大学院1年)

インスタレーション作品


T+review

「超えること」とは何だろう。目の前の白い線を跨ぐことだろうか、過去の自分に打ち克つことだろうか。私の想像ではその程度しか出てこない。だがこの展覧会は全く別の角度から「超えること」について考えている。ギャラリーの真ん中より少し奥にコンクリートのブロックが横一列に整然と並べられている。コンクリートブロックの上に少しかかる白はなんだろう。奥にはヘッドフォン。静けさと床のブロックの構成されるこの奇妙な空間が問いかける。それに答えるのはヘッドフォンから流れてきたさざ波の音だった。展覧会は作者が2015年6月に東北の沿岸地域の巨大防湖堤の建設工事とそれを取り巻く人々の話を聞いた記録がベースとなっている。波の音か風の音か、渦巻く自然を背景に話す初老の男性の声は海よりも深いものを背負っているように聞こえた。作者がいうには塩作りを生業としている男性の声だ。防潮堤に見立てたのだろうコンクリートブロックと塩にも見える白い色。私は容易にそれを跨いで奥まで辿り着いたことに気づいた。それを跨ぐ時、超える時何を思っただろうか。何も考えずただ先に進もうと歩みを進めた。
 東北には巨大防塩堤を作ることで街を守るが、その影で塩作りへの影響を心配している人がいる。私のような若いものが前だけを見て先に進もうと思った時、それは通過地点にすぎない。軽く超えてしまうのだろう。けれど其の地に安住し深く深く海の底まで根付いてきたものにとってはそこが居るべき場所だ。いま東北には防潮堤を上から跨ぐものと下から見上げる物がいる。「超えた」と思った時、私たちは何を超えてしまうのだろう。何を踏み台にしたのだろう。(古屋花子)

塩


「anotehr side」手嶋瞳2016年1月7日~1月8日

展覧会「another side」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2016年1月7日~8日
出展者:手嶋瞳(人間総合科学研究科 MC2年)

筑波大学の大学院で制作をした絵画作品を展示します。

T+review

 心象風景といった趣の作品である。風変わりな形の建物や、果物や野菜など様々なものが描かれているが、どこか寂しげなのは、多分ひとけが全然ないからである。よくみると、時計や横断歩道のようなものや、蒸気機関車に標識、車、靴、工場、さらにサーカス小屋や観覧車など、人工物がたくさん描き込まれているのだけれど、人っ子ひとりいないので、それぞれのモチーフの大きさがちぐはぐなのも相まって、シュルレアリスム的な世界になっている。
2つの作品に共通しているのは、非常に平面的な画面構成であるということである。この平面的な表現が作品の大きな特徴であると思う。広い空間の中に、モチーフが手前に奥にと配置されているというよりは、平らなボードの上に、紙にかいた絵を一つ一つ重ねながら置いていったようである。地面の部分はなんとなくパースがきいているような感じもするが、すぐ横に描かれた張り紙のようなものによって意図的に空間がつぶされている。ちょっとだまし絵的でもある。
 また、両作品の中で目を引くのは、金色の絵の具によってかかれた、外国語の文章やまるで額縁の飾り模様のような蔦である。文章のほうは、画面の様々なところに、”The early bird caches a worm.”だとか、”THE TREES FRUITED EARLY THIS YEAR”だとか、”There will always be a tide, a moon, a sun, the stars, a season”などと盛り上がった絵の具で小さく書かれている。それぞれ訳してみると、「早起きは三文の徳。」「今年、木々は早くに実をつけた」「潮の満ち引きや、月、太陽、星、季節はいつもある。」といった感じになると思われるが、これらの言葉が作品とどのように関係しているかはよく分からない。「早起きは……」と「今年、木々は早くに……」の二つの文章については、「新年になってから一番にギャラリーに展示したという意味でこの文章を使ったのだろうか。」とも思ったけれども、考え過ぎかもしれない。(市川太也)

 

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