投稿

「make up」 浅井佑子 2010年1月25日~2010年1月28日

展覧会「make up」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2010年1月25日~2010年1月28日
出展者:浅井佑子
(博士前期課程芸術専攻総合造形1年)

化粧をテーマとした映像作品の展示。

T+review

大きな黒い瞳の中に化粧品・化粧道具の数々が映り込む、完璧に武装された女性の目がある。化粧品会社の広告のように、非の打ち所のないDMだ。

最近、日本が世界で二番目にコスメに投資していることを知った。とはいえ、資金の大半は宣伝に用いられているそうだ。宣伝には、えもいわれぬほど美しい女性達が抜擢され、素顔でも十分に美しいであろう顔に、さらに魅力的にみせるような化粧をする。桃のように滑らかな肌には、毛穴を消しより白く見せるおしろい。みずみずしい果実を口にした後のように潤った唇には、艶やかさや色を際立たせるリップスティック。奥ゆかしく透き通り今にも語りかけてきそうな瞳には、脇から演出するアイラインやつけ睫毛、アイシャドウ。といった具合に、例に暇が無い。商品は、次々により新しくより画期的なものに取って代わり、人々はより良い商品を求め、より進んだ化粧に挑戦する。

何の脈絡もなく綴ったように思われるここまでの話を、この私の頭に浮かばせたのは、他でもない展覧会「make up」である。マニキュアを用いたペインティングや、口紅を塗った唇を花のように見立てた作品もあったが、とりわけ衝撃を受けたのが、顔面の右目を含んで切り取った画面。その右目の瞳には、化粧をする人の動きが鮮明に映っている。すっぴんから始まり、目の縁ギリギリに黒いラインを入れ、睫毛を付け、また一層幅のあるラインを引き、幾重にもシャドウを重ねる。瞳に映る女性の動作に伴い、画面の大半を占める目が変化し、大きく迫力のある目へとぐんぐん進化する。その勢いはあまりに鮮やかで、観る者が気付かぬうちに、独りでに静静と微妙な変化を遂げているのである。

しかし、ある時点から、魅力的か否か判別に困るようになる。瞳に映る人物が、目に留まらず他の部分をも黒で塗り始めるのだ。次第に黒は、顔に占める面積を広げ、終いには顔全体を飲み込んでしまう。

ここまですることは、「make up」と言えるのだろうか?と感じ、思わず辞書で「化粧」と調べた。広辞苑には「美しく見えるよう、表面を磨いたり、飾ったりすること」とあった。しかし、美しさの定義など、文化・国・性別・個人等々により異なるものである。顔面を漆黒に塗り尽くした姿を美しいと感じる人も存在するかもしれない。事実、日本でも、顔面を茶色で塗り、元の形が区別できないほどにパーツパーツに細工を施した姿を良しとする文化があるのだから、なかなかに化粧とは無限の広がりを持っているのであろう。そして、無限性をもつ「make up」を題材に、作品を「make up」しているところが、人々の関心を引き、展覧会そのものも可能性を感じさせるものとなった理由であろう。

(辻真理子)

浅井佑子


「ピーポーズ」 井上藍 2010年1月12日~2010年1月14日

peoples
展覧会「ピーポーズ」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2010年1月12日~2010年1月14日
出展者:井上藍
(美術専攻日本画コース 3年)

日本画の作品展示

T+review

人間のこころは複雑なもので、自覚している面がすべてではなく、無意識の領域は無限に広がっている。人間の奥底にひっそりと棲みつく悲しさや虚しさ、狂気は、自分で意識している、いないに関わらず、人間の本質として、わたしたちを静かに蝕んでいる。そしてわたしたちはそれらを意識的に、あるいは無意識的に忌避してできるだけ目を背け、無意識の領域に押し込め、あるいは自虐的に開き直って、毎日をようやく過ごしているのである。「ピーポーズ」は、そんな人間の本質的な負の部分との関わり方を、改めて考えさせられる展覧会であった。

 壁に掛けられた4枚の絵にそれぞれひとりずつ人物が描かれている。色褪せたように落ち着いた色彩とがさがさとした筆跡で描かれたこれらの絵は、一見何の変哲もないただの人物画のようだが、彼らの表情はどこかうつろで、はかない。雨がしとしとと降るひどく寒い夕暮れにギャラリーを訪れたからかもしれない。わたしはふと泣きたいような気持ちになった。彼らのうつろな表情に、人間存在の虚しさ、寂しさを見出したからである。今まで必死で目を背けてきたものを目の前に突きつけられて、わたしはどうしようもなく悲しい気持ちになってしまった。しかしそんな気持ちでしばらくぼんやりと見ているうちに、描かれている人物がなんだかとても愛らしく思えてきて、そしてそれは同時に、作者の人間に対するスタンスでもあることに気がついた。作者の人間に対する愛が人物の表情ややわらかな色彩などからひしひしと伝わってくる。作者は、人間の本質にあるはかなさや虚しさを鋭くとらえつつも、それらをえぐりだして(暴力的に!)祭り上げるのではなく、そっと抱き上げてやさしく包み込む。描かれている人物は、たしかに寂しさや悲しさを纏っているけれども、それらは作者のやわらかな愛に包まれている。

 わたしたちは普段、愉快で楽しい毎日を過ごすために、暗くて湿っぽい感情はこころの奥底に沈めて知らないふりをしてしまいがちである。しかしこの4枚の人物画は、悲しさや虚しさを含んだ人間のすべてを認めて受け入れる、やさしい愛をわたしたちに示してくれる。

(金沢みなみ)


「0/4≠0」 久保沙織、小熊かおり 2010年1月4日~2010年1月8日

展覧会「0/4≠0」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2010年1月4日~2010年1月8日
出展者:
久保沙織 (芸術専門学群3年)
小熊かおり (芸術専門学群2年)

0/4 だけど、あとにのこるのは 0 じゃない。

T+review

私・展示者の2人・そして来場者の大多数は筑波大学生であって、世間から見れば「青春真っ盛り」な年頃だ。しかし、青春とは後になって顧みるものであり、他者から青春してるね、なんて言われてもその中にいる者には実感の湧かない、儚いものなのである。

本展覧会である『0/4≠0』は青春をテーマにしたものだ。4人の高校生が登場し、それぞれが恋をするが、実らない。失恋はしても恋をした経験は決してゼロではない、という展示者のメッセージが込められており、それは展覧会名からも伺える。

甘酸っぱく、しかしほろ苦い恋の物語。それらの様子はギャラリーの天井から4列に吊るされた1列約15枚に及ぶイラストや文字で語られる。主人公の表情や視線の切り取り方はまるで写真のようだ。そして、文字は物語の語り部のようなものではなく、会話と心情が詰まったドラマのように見えた。各列の構成はイラストのみ、文字のみとどちらかの表現でしか表されていない。見る者はゆっくりと横歩きをしながらそれらの恋の行方を眺めていた。

自分が高校生であった頃の恋愛を思い出してみる。すると、色々な出来事があったはずなのに、頭の中では写真、しかもピントのずれた画像のようなものしか残っていない。交わした会話も無論全てではなく、断片的なものしか思い出せない。

「理解」ではなく、眺め、「受け入れ」させるような表現・展示が為されたそれぞれの恋、青春。大学生である私たちの通過点である「高校生時代」、それはあたかも他人ように客観視できるものであると同時に、燻るように、焦げ跡のように心のどこかに残る出来事なのだろう。残るものは確かにゼロではない、「≠0」なのだ。

(原口寛子)

ttasu


「赤から青へ 青から赤へ」 上脇田直子 2009年12月21日~2009年12月25日

展覧会「赤から青へ 青から赤へ」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2009年12月21日~2009年12月25日
出展者:上脇田直子
(博士前期過程芸術専攻洋画1年)

アクリルやソフトパステル等を使った平面作品の展示。

T+review

風が冷たく吹き当たる今日この頃。赤、黄、橙といった暖色の豊かさに好奇心を掻き立てられ多くの人がこの展覧会に足を運んだ。私もその一人であった。会場内の色に目を奪われたまま足を運ぶ私の目下に白看板が現れ、「赤から青へ 青から赤へ」という文字が記されていることに気付く。一体どんな意味があるのだろうか。

会場に足を踏み入れ、真っ白な壁に浮かぶように並べられた、鮮烈な色彩を持つ作品にそっと近づく。二枚の正方形のパネルを連続して見せた《flower》には、赤、桃色で流れ、滴るように大きな花が描かれている。距離をとって眺めると花に溶け込んで見えなくなるのだが、手が届くほど傍に寄ると、花弁の隙間には巻き込まれるような人間の足や、私たちが普段目にする花といった無数のコラージュが成されている。作者は「花のイメージとは逆に、どこか怖くて気持ち悪い」印象の作品だと述べていた。説明的であることも助けているのか、そこには、ゆっくりと、しかし確実に流れる夢のような時間が存在していた。

《不確かなもの》《夢だったのかもしれない》と題される一連の作品は、柘榴をモチーフの中心として描いた作品で、プリズムを通した太陽光の暖色だけを選択し、キャンヴァスに投影したかのような透明感、融合感を持つ。最初の二作は、写実的に描かれた柘榴を飲み込んだ鳥の隣に、鏡写しのようにして同じ鳥が非現実的な様相を呈して並ぶ。本来の色彩から離れた、あまりに幻想的な色彩を持つ鳥は、熱や生命感だけを残して表現されているのだろうか。そのあとに続く、柘榴のみずみずしい実。この作品を目にしたら、口に運びたいと思わずにはいられないだろう。豊かな実のオーラは周囲の空間を支配し、石榴の味や香りが私たちの五感に再現される。蛇に唆されてエヴァが口にしてしまった実の誘惑もこんな風だったのだろうか。作者に言われて気がついたのだが、極めて微妙に《不確かなもの》から《夢だったのかもしれない》に向かって、柘榴の作品は、構図のとり方により、ぼんやりと鳥から横たわる人へと形を変えている。この変化からは温かくて心地よい、時間的、空間的、そして心象的な流れが感じられた。

今回の展覧会は、作者が一年間制作した作品の集大成として催された。作者は、「制作する上での技法やコンセプト、色彩表現がころころと変わってしまったり、制作中も全く上手くいかないときといくときの波が激しかったりしたので、色に例えて展覧会名を付けた。」と語っていた。しかし、色彩豊かな作品自体にも、ゆったりとした変化を題材としているような表現がなされていたのではないだろうか。

(辻真理子)

けみかる


『九州展№005~90309~』新直子,他 2009年12月14日~2009年12月18日

九州展 DM
展覧会『九州展№005~90309~』が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2009年12月14日~2009年12月18日
出展者:
河瀬茜音
梅田友利
中村友貴
平良希望
長友秋菜
新直子
福田健二
内ゆき
武本沙織
池田傑
上脇田直子
権藤奈保子
中野憲一
中森祐介
灰塚みゆき
莫根美穂
山下亮磨

九州出身者による、平面・立体の小作品展示。

T+review

ギャラリーの扉を開けると、色も形も素材も大きさも、全く異なる作品がずらっと並べられていた。九州展90309は学群の1年生が質のいい展示をすることで先輩に刺激を与えようと2003年に1年生2人で始まった。日本画、洋画、彫塑、書など領域と学年を飛び越えた17人それぞれの個性がひしめき合い、1人または2、3人で同じテーマの下に展示を行ういつものギャラリーにはない、目新しさや騒々しさ、ワクワク感があった。特に私の印象に残った2作品を取り上げたい。
≪湿潤な緑の海へ≫森永 亜樹(彫塑)
絵や書の平面作品が並ぶギャラリーに、ぽつんと現れたかたつむり。金色に輝く体は金属で、かたつむり本来のにゅるっとした体とは一見相反するようだが、光が当たることで独特のぬめぬめした質感が出ていた。殻は体とは対照的にざらざらとしていて、苔のような緑や白が混ざり合い、年月の経過を感じさせる。軟らかい体でのそのそ歩くかたつむりも、実はいくつもの苦難を乗り越えてここまで来たのではないだろうか。少し腰をかがめてかたつむりと同じ目線で見てみる。その瞬間、私の世界にかたつむりが入ってきた。ぴんと立てた触角はこちらに伸びていて、まるで私に挨拶しているようでもあり、理想とする場所に向かって一生懸命進んでいる途中のようでもある。私は進行の邪魔だったかもしれない。
≪静かな夜≫莫根 美穂(日本画)
和紙のような少し毛羽立った素材の上に、染み出したような微妙に色みの異なる様々な青と白い四角がのせられている。表面はきらきらしていて、日本画ならではの色彩の繊細さと美しい青に吸いこまれそうになる。最初白い四角が建物の窓に見え、もやがかかった夜の街並みに見えたのだが、じっくり見ていくと薄い青から濃い青の方へと視線が誘われていく。一気に画面に奥行きが生まれ、描かれてはいないが確かに存在するもっともっと奥にある世界に引きずり込まれる。それはまるで私が今いる現在からぼんやりとした過去にタイムスリップしていくような感覚であった。何もかもが新鮮できらきらしていた幼い頃の記憶が蘇る高揚感や懐かしさと同時に、未知の世界に連れていかれる不安と寂しさも感じた。
 九州展90309は出品者が全員九州出身という点以外何も共通したものがないように思える。しかしどの作品をとっても見る者はその世界に引き込まれてしまう。ギャラリーの小さな空間の中で万華鏡のように様々な世界を体験することができる。5回目を迎える九州展は今回で一度終了となる。生まれ変わった九州展でどんな世界に出会えるのか、今から楽しみだ。
(武藤かおり)