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「piece #2」 品川愛郁 2012年4月16日~2012年4月20日

展覧会「piece #2」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2012年4月16日~2012年4月20日
出展者: 品川愛郁(美術専攻書コース4年)

書の小作品の展示

T+review

ギャラリーの中に、6点の書作品が並んでいる。形も色もすべてばらばらで、6点がそれぞれに個性的な額装をなされている。その見せかたでは、この限られたギャラリーという内の空間をみたすには統一感に欠けてしまうようにも思われる。しかし、不思議と混沌とした空気は感じられない。改めて作品達を見つめ、そして一点一点の作品に作者の対するこだわりを感じたとき、ギャラリー内全体が「書」を慈しむような空気に満ちていることに気付くのだ。
 作品達は、そこに書かれている文字や文章に対して、効果的な大きさが選ばれている。また、文字が書かれている媒体の素材や、筆遣いなども使い分けられ、工夫されている。それらの、作品ごとに込められた複数の工夫が互いに効果を高め合い、文字の個性を強めている。
 例えば、『桜』の文字は灰色に近い軽い色で書かれ、字の様子は風に舞う花びらのように動きにあふれている。また、『揮』は深いしっかりした黒い墨で、一画一画踏みしめるように力強く書かれている。朱色の紙に白い紙を乗せた上に書き、引き締まっている。
 このような一点一点に対するこだわりから伝わってくるのは、作者が文字というものを無機質なものではなく、有機的で可能性のある表現の要素として捉えているような姿勢だ。作者は日本語というものを大切にして、真摯に向き合っているのだろう。作者にとって文字は、ただ情報を伝えるためだけの記号ではない。伝えている意味情報ばかりに目が向きがちな文字というものを、それ自体が独立して個性を持ちうるものに作者は仕立て直す。
 文字というものに愛情をもって向かい合っている作者は、まるで文字たちの母であるかのように感じた。(岡野恵未子)


「素のまま展 next」 原田多鶴×北尾典子 2012年2月13日~2012年2月17日

展覧会「素のまま展 next」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2012年2月13日~2012年2月17日
出展者:原田多鶴×北尾典子(芸術専門学群 デザイン専攻2年)

個々のパラダイムこそがユニークなのではないか という仮説から、「そのまま」を展示。

T+review

“物を再認識するような感覚を作品に”
 展示のコンセプトは、身の回りにある、何気ない物のカタチを再認識できるような作品を生み出すこと。クリップや色鉛筆、パンの包装紙など、作品の素材はすべて日常生活の中のありふれた物たちだ。
 デザイン専攻2年、原田多鶴。彼女の作品は、普段は「道具」として使用されるもの、つまりそれ自体が注目を浴びることのないような素材を用いている。
 4色のカラフルなクリップを45℃になるように開いたものを円形に配列した≪45°≫は、今まで気づくことのなかったクリップの有するかわいらしいカタチ を提示してくれている。工業製品に内在する、人工的な数字。45°という数字から生まれる規則正しい形態は、シンプルながらも新しい感覚として自然と鑑賞者の記憶に取り込まれていく。また、≪arranged dots (study)≫と題された作品は、何種類もの小さな○がきれいに並んで描かれた、観る者の心を明るくさせるようなユニークな作品である。油性ペンを使用するときに紙の裏面にできる「しみ」。このしみは、本来意図して描かれることも、意図して見られることもない。私たちの意識の外にあるこのしみをあえて意図して配列することで、「意識と無意識の共存した不思議な画面が出来るのでは」と考えたという。これらは重ね合わせた紙の繊維のごく小さな隙間を通り抜けてきたインクの形跡である。
 ギャラリーの奥の壁には、一際目を引く斬新な作品が展示されていた。同じくデザイン専攻2年、北尾典子さんの≪Evaluation≫である。垂直に交わる2本の矢印と、壁一面に散りばめられた無数のランチパックの包装紙。

 タイトル(evaluation=評価・査定)からもわかるように、色みや雰囲気の違いによって配された包装紙からは、その一つ一つがデザインされたアート作品であるということを主張しているかのような印象を受ける。(菊池美里)

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「Story」 青野広夢 2012年2月6日~2012年2月10日

展覧会「Story」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2012年2月6日~2012年2月10日
出展者:青野広夢(芸術専門学群洋画3年)

「あなたの心から始まる小さな物語」パステル画の展示

T+review

暗幕で覆われた展示室の中。静かに扉を開ければ、そこにはやわらかなパステル画面の世界に住む動物たちがいた。

静かな宇宙空間の中、衝突してきたであろう隕石を背景に、月面のような場所で一つの石を拾うツキノワグマ。『今 僕がすべきこと』
だるそうに自分の手に顎を載せて玉座に伏せ、尻尾で王冠を持て余すライオン。『私が手に入れたもの』
青空の中、一番高くにある雲まで首をのばす青いキリン。『欲しいものがあるの』

動物たちは細かく描写されているのに、リアルなどうぶつ、という感覚は生まれてこない。
それは、みんなそれぞれに、意思があるように感じるからだろう。
作品を前にすると、彼らとまるで一対一の対話をしているようだった。
動物たちは、自らの物語をかたりかけてくる。

「ぼくはこうなんだけど、君はどうするの?」

その物語の内容は、鑑賞者によってひとりひとり違う。
自分だけの絵本の世界に飛び込んだような、そんな空間だった。
タイトルと合わせて作品からは、詩のようにメッセージがじんわりと沁みてくる。
どこか、自分の生き方について考えさせられるような奥深さももっていた。

展示室を出た後、自分の心の奥底の世界に行けたような、
それがかわいらしい世界だったから素直に自分の心と向き合えたような、そんな気がした。
また、自分だけの物語が自分にどう語りかけてくるのか、もう一度この世界に来たいと思った。
そして今も、あの動物たちは私の心にそれぞれの世界で生き続けている。
彼らとまた対話できる日が来るまで、私も彼らとともに生き続けてゆく。(池田寛子)

Story


「こぼれおちるもの」 山越梓 2012年1月10日~2012年1月12日

展覧会「こぼれおちるもの」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2012年1月10日~2012年1月12日
出展者:山越梓(芸術専門学群構成専攻1年)

”こぼれおちるもの”について展示します。

T+review

ギャラリーに、人工物、工業製品特有の静かさと強さを発しながら、さまざまなモノたちがならんでいる。既製品を一つ一つ並べるというスタイルには既視感を覚えるが、明るいギャラリーには洗練された心地よい空気が流れている。作品の名前は《すべて灰になる》《分断》《灰にならないものもある》《目を見て話せ》。これらのモノたちの作品名は純粋にそのモノを説明しているだけであり、何かに“見立て”ているわけでも、作品名を《無題》としてモノそのものに焦点を当て、そのヴィジュアルを強調するわけでもない。例えば、電話機は受話器と本体とで文字通り「分断」されている。いくつかの台の上に置かれたお灸や煙草、マッチは「すべて灰になる」ものであるが、壁に掛けられた鉄製の輪のように「灰にならないものもある」。

 作者はこの展示にあたり、「何かが失われていく恐怖に対抗して、私は制作しようとしている」と述べている。何かとは何だろうか。それは、制作表現することで留められるもの、守れるものなのだろうか。失われうるが留めておきたいものそれは、作者の思考ではないだろうか。

 日々を過ごす中で私たちは、色々なものを感じ、考え、思考は流れ続けている。そのように一瞬一瞬で過ぎ去って行ってしまうちょっとした思考の一部分を切り取り、作者は作品として残したがっているように感じる。例えば、《すべて灰になる》ではすべて火をつけて使うモノたちが、始めの形は違っても最終的には同じ形状の灰になってしまうのだという気付きであったり、《目を見て話せ》では鏡であるのに鏡のようには使いにくいカーブミラーのもどかしさなどである。

 不確かでどんどん進み続け、こぼれ落ちてしまいそうになるふとした思考を、作者は作品に残しているのかもしれない。(岡野恵未子)


「すりぬけるもの」 山越梓 2011年12月12日~2011年12月16日

展覧会「すりぬけるもの」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2011年12月12日~2011年12月16日
出展者:山越梓(芸術専門学群構成専攻1年)

これは記憶の展示です。
どんな記憶であるか、わたしにもわかりません。

T+review

「これは記憶の展示です。」‐展示に対する作者の言葉はこの一言。展示室に入ると、自分の体の大きさが分からなくなったような感覚がする。床に積まれた砂利や、隣に立つ鉄柱によって、展示の様子が高い空から見下ろした風景のように感じられるからである。

 床に積まれた、素朴で明るく白い砂利の合間からは、豆電球が点灯しながら顔をのぞかせ、命を燃やす人間のようである。砂利は、人類共通の記憶のような太古の砂漠。そのとなりには私たちが生まれた時代の工業地帯に立つような鉄柱が飾られている。壁際には点かない電球が二つ設置され、床には「N40.463667」といった位置情報を示す数値が書かれている。

 今回の展示で作者が表わしたのは、幼いころの聖書の記憶だそうだ。床に描かれた位置情報は、実家や協会、聖地。壁の頂点にある壊れた電球には、キリストに関する台詞が記される。これらの表現は「完璧な聖書」ではないし、もちろん他者に伝わりにくい。他人とは異なる人生を生きてきた個人の記憶を表現するのだから、この溝は避けられない。だからなおさら作者の説明があればより作者の記憶に触れられたのではないかと思う。一言の説明で理解するにはあまりに抽象的であり、鑑賞者の空想に任される部分がかなり大きいのだ。

 「これは記憶の展示です。」‐記憶は何を「すりぬけるもの」なのか。記憶の持ち主が生きてきた時間をすりぬけ、世にはびこる情報をすりぬけ、私たちの記憶は私たち自身に運ばれていく。記憶の正確な状況や視覚情報は段々と崩れてゆき、最後まで残るのは自分の内面にある印象やイメージだ。それらは自分の中では確実に存在するものだが、他人に伝わるように表現するのは大変難しい。今回の展示でもそうだろう。だが、表現しようとしている作者のイメージを感じとることはできるはずだ。どこか異国のような雰囲気が漂い、周りの空気が張っているこの展示。それが作者の表わそうとしているものである。思えば幼いころ、自分の身近な世界の外側は、本当に異国のように遠い遠い存在だった。

 イメージを共有することができてもできなくても、それが「記憶の共有」だと思うのだ。(岡野恵未子)