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「えんじる」 幣島正彦、小山正和 2012年6月18日~2012年6月22日

展覧会「えんじる」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2012年6月18日~2012年6月22日
出展者:幣島正彦(美術専攻洋画コース3年)
    小山正和(美術専攻洋画コース3年)

他人の作品を制作することをテーマにした平面作品の展示です

T+review

えんじる=ある場面、状況などにおいて、ある印象を見る人に与えるよう行動すること。

 本展の展示スタイルは出品者が互いに相手のエスキースやドローイングを元に作品を制作するという一風変わったもの。展示室には紙に描かれた「下絵」の横に、それを元にカンヴァスに描かれた、他者による「完成作」が並べて展示されていた。

 真っ先に目を惹いたのは、奥の壁に飾られた1組の作品だ。ギャラリーの外まで巻き込むような異様な雰囲気を放つそれらは、どっしりと「人間」を待ち構えていた。吸い寄せられるかのように恐る恐る近づいてみると、その見た目には不相応な可愛らしいパンツを身につけた不気味な生物と、元となる幣島さんのエスキースが展示されていた。首から下は痩せこけたヒト、頭部はおそらく脳味噌や筋組織であろう塊から象の鼻のようなものが生えた、なんとも言い表し難い生物が血だまりの上で足踏みしている。エスキースの段階では「完成作」の頭部にあたる部分のみ描かれており、「完成作」の影響からかそれは何となくちぎれた生命体の一部のような印象を受けた。しかし実際は何をイメージして描かれたものなのか、そもそも「何か」を表そうとして描いたものなのか。出品者はモチーフや主題、伝えたいことの段階を相手に任せた上で画面上で遊ぶことをコンセプトにしているが、「下絵」が「完成作」に構想を与えるとともに、「完成作」からも「下絵」に対して明確な印象を与えているように感じた。

 「えんじる」にはもう一つ意味がある。それは「ある役目を務める」ことである。“えんじる”ことは、つまり他者の伝えたい未完のイメージを明確な形で提示する役目を果たすということ。出品者は共に洋画を専攻しているが、その画風やものの見方は全く異なっている。そんな二人が互いに“えんじ”た作品たちは、鑑賞者のみならず作者自身にとっても予想外の印象を与えたに違いない。(菊池美里)


「いすにすわっている」 関川航平 2012年6月11日~2012年6月15日

展覧会「いすにすわっている」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2012年6月11日~2012年6月15日
出展者:関川航平(美術専攻特別カリキュラム版画 4年)

T+review

 「椅子に座る」
 この動作は、私たちが何気なく毎日毎日繰り返し行っているものだ。
その目的は、休むためであったり、授業を聞くためであったり、食事をするためであったり。
結局は何かの目的のためにしているし、はたから見ても大抵はなぜそこにその人が座っているのかが分かる。

 では、なぜあの人たちは
ギャラリーの中、まるで教室のように並べられた椅子に
座っているのだろうか。

 彼らの目の前には先生もいないし黒板もないしテーブルもない。
横の白い壁には、「いす に すわって  いる」と黒いビニールテープで大きく書かれている。
まさにその通りだ。彼らはイスに座っている。

 自分も毎日行っているその日常的な動作”そのもの”を意識するだけで、
何か異様な光景に見えてきてしまう。

 彼らは、「いすにすわる」ことを目的としている。

 動作と目的が一致したとたん、身近な動作が異空間を生み出していた。
しかし彼らは時々動くし、稀に読書をしている人もいる。
ピシッと座る人もいれば、ダランと座る人もいる。
一週間の展示期間のうち一人しか座っていない時もあれば、たくさんの人が座っている時もある。
この変化はごくごく日常的なもので、教室の中と同じ、身近な風景だ。

でも何かがおかしい。

そう、彼らは「いすにすわる」ためにそこに存在しているのだった。


「うさ君展」片岡知紗 2012年6月4日~2012年6月8日

展覧会「うさ君展」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2012年6月4日~2012年6月8日
出展者:片岡知紗(洋画3年)

平面、立体の展示です。

T+review

ギャラリーに入ると、なんとも不思議な生き物たちが私を迎えてくれた。胴体や顔のパーツは丸みを帯び、体は鮮やかな蛍光色。二本足や四本足のもの、目が二つ以上あるもの、奇妙な触角が生えているものなど、その形は個体によってさまざまだ。彼らは一見ポップでキュートだが、その体からは時折脳みそが露出しており見る人をぎょっとさせる。露出した脳には針が数本刺さっていることもあるが、彼らはあくまで無表情であり、そこに痛みはないように見える。

 彼らの多くは、壁に掛けられたキャンバスの中で様々な空間にたたずんでいる。何処とも知れぬ暗闇の中や、街灯に照らされたベンチの上。あるいは、砂漠にどっしりとその体を横たえていることもある。ただ、原則として彼らは活発に動こうとはしない。人気のない空間で、どこか遠くを見つめている。私たちが作品の前に立ち、彼らのその奇妙な姿を見つめていても、彼らは決して私たちと目を合わせない。その視線は、目の前にいる私たちの存在を軽くすり抜けてどこまでも伸びていくように見える。

 さて、キャンバスの中でも十分魅力的な彼らだが、今回は立体として我々の住む3次元空間にも進出している。つるつるとした体に毛糸やフェルトをまとい、展示台の上でやはりどこか遠くを見つめている。その姿は、時にキャンバスの中にいるときよりも魅力的で、一匹一匹が「生き物」として強烈な存在感を醸し出している。吹き出しの形をしたキャプションには「もぐもぐ」「ふりふり」といった擬音が書き込まれ、平面世界にいる時よりも生き生きとして見える。

 奇妙な生き物たちが生み出す奇妙な世界。2次元から3次元へと進出してきた彼らがこれからどこへと向かうのか、まだ誰も知らない。(玉谷研太)


「ヒマラヤ」 上野郁代 2012年5月21日~2012年5月25日

展覧会「ヒマラヤ」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2012年5月21日~2012年5月25日
出展者:上野郁代(洋画4年)

山の絵画

T+review

壁にかかっているのは、「まさにヒマラヤ」といった感想を抱かせるイメージの集合体だ。大きな四角形が10ほどに分割され、それぞれの画面には色彩やアングルが様々な山地が描かれている。夕日が当たっているように、柔らかいオレンジ色の光に染まっている山々。星空の下の山々。現実にはありえないような緑色で表現された山々もあれば、氷河のように真っ白な山々―私たちがよく目にするヒマラヤの姿―、闇に浮かぶ山々、と表情豊かな「ヒマラヤ山脈」が集まっている。
 「ヒマラヤ山脈」?ここで、不思議な違和感を覚えた。この描かれた山々は本当に「ヒマラヤ」なのだろうか?確かにこの展覧会の名前は、「ヒマラヤ」である。しかし描かれた山々がヒマラヤ山脈であるという情報はどこにも提示されていないのだ。作品を観るときに私たち鑑賞者は、展覧会名から受け取った情報を勝手に作品に結び付けてしまっているのではないだろうか、という問いが思い浮かぶ。本当はヒマラヤ山脈を描いた絵ではないのかもしれないのに、私たちはこの作品を「ヒマラヤ」だと思い込む。これは、情報を頼りにするという普段からの姿勢の表れなのかもしれない。
 私たちがある作品を観るとき、なんらかの先入観、前情報をもたずに観ることはできるのだろうか。先入観は、作品が伝え得るものを限定する。つまり、私たちが受け取り得るものも限定するのである。この展示「ヒマラヤ」を、描かれた山々がヒマラヤ山脈であるという思い込みの情報を持たずに観たとき、描かれた山々に残っているものは何であろうか。それは、山が純粋に一山として持つ個性であろう。描かれた山々が「ヒマラヤ山脈」と決まる以前に一つの「山脈」として持っているもの、表情、それらが純粋な状態で画面に留まっているのではないだろうか。夕日を浴びてオレンジ色に染まっているこの山は、ヒマラヤ山脈なのかそうではないのか。どちらにせよ、純粋な「山」のイメージの存在が画面にあるのだ。(岡野恵未子)


「スイッチつきのタップ」 和田晴奈 2012年5月14日~2012年5月18日

展覧会「スイッチつきのタップ」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2012年5月14日~2012年5月18日
出展者:和田晴奈(総合造形4年)

5月のまんなかにやる展示です。

T+review

ギャラリーに入って、芳名帖に名前を書き込もうとすると、
目の前には「世の中には、よくできている物とそうでない物があると思います」との、展示者のメッセージ。
ギャラリー中央に置かれた机には「スイッチのオンオフを切り替えてご鑑賞ください」の文字と、スイッチ式のコンセント。
その横には、「大さわぎ」と「小さわぎ」とかかれたキャプションがある。
机の前に立つと、天井から無数に下がっている黄色いスズランテープがカーテンのように私の視界を遮る。
そのカーテンの下には、こちらに顔を向けている一台の扇風機があった。
さらにその奥には、横を向いたギターとその目の前に置かれた扇風機がもう一台。
ちょうどギターの前に、天井から垂れさがって来ている黄色と黒の縞縞の縄がある。

試しに、2つあるうちのスイッチの一つをオンにしてみると、ギターの前に置かれた扇風機が作動し、
縄が風にあおられて揺れた。
すると突然、ギャラリー内にボーンという音が低く響く。揺れた縄がギターの弦に触れ、音を奏でたのだ。
縄の揺れは不規則で、いつギターの音が響くかは分からない。しかし突然鳴るからこそ、ギターの音の支配力は増す。
ギャラリー全体が一瞬音に包まれ、私の意識も持っていかれる。

一旦スイッチをオフにして、今度はもう一方のスイッチをオンにしてみた。
すると今度は目の前に合った扇風機がこちらに向かって風を送り、
目の前に合った黄色のスズランテープがばさばさと私めがけて手を伸ばしてくる。

ギターが音なら、こちらは動き。

「騒がしい」という感覚の、2つの要素をそれぞれが担っているような気がした。
二つのスイッチを同時にオンにしてみると、スズランテープがばさばさする視覚的うるささと、
ボーンと耳に響くうるささが同時に私を襲ってきて、ギャラリー内は大騒ぎになった。
一つ一つの現象ならば目をつぶること、耳をふさぐことで回避できるが、二つ同時に起きると、その騒ぎから私は逃れることが出来ない。
スイッチを入れるというとても簡単な動作。
ONにするだけでモノが動き、中途半端な動きは一緒になって、大騒ぎをし出したのだった。(池田寛子)