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「11.186km/s(よかろう)」 鈴木沙織、中村純典 2012年8月20日~2012年8月24日

展覧会「11.186km/s(よかろう)」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2012年8月20日~2012年8月24日
出展者:
鈴木沙織(人間総合科学研究科芸術専攻日本画領域博士前期2年)
中村純典(芸術専門学群美術専攻日本画領域OB)

ウパ ウパ

ぼくは ウパ

ウパ ウパ

きみも ウパ

ウパ ウパ

みずの なか

ウパ ウパ

えさ どこだ

ウパ ウパ

おひさま は

ウパ ウパ

にがて だぞ

ウパ ウパ

(セリフ)
「そう、つまるところ、重力とは神様の影なのだウパ」

「それは、どこまで行っても人類をつきまとう、罪なのだウパ」

T+review

鈴木沙織、中村純典の二名による今回の展示は、なかなか深読みし甲斐があるものだった。全てを読み取ることはできなかったが、気づいた部分だけでもまとめてみたい。
 まず、展示内容は数点の日本画がメインである。そのほかには、詩の書かれたボードが一つと、鳥居を思わせる金属の小さな板がいくつかあった。描かれているのは電柱、鉄塔、ウーパールーパー、枯れた植物の刺さった青い瓶。鉄塔以外のモチーフは、それぞれ異なるアングルや配置のものが2点ずつ対になっている。鉄塔を描いた作品の上には、神社の社を思わせる金属製の装飾が施されている。
 入って最初に目に留まったのは、2体のウーパールーパーの絵に挟まれた詩のボードだった。「ウパウパ」と軽快なオノマトペに乗せて、ほの暗い水の中でえさを探すウーパールーパーの様子が描かれている。ところが、最後の段落で突然
「そう、つまるところ、重力とは神様の影なのだウパ」
「それは、どこまで行っても人類をつきまとう、罪なのだウパ」
という意味深なセリフが現れる。重力…神様の影…人類をつきまとう罪… 神と人類の罪と言えばキリスト教の「原罪」を思い浮かべる。アダムとイブが神の言いつけを破ったため、人類は生まれながらに罪を背負っているというあれだ。生まれながらに重力に支配されている人類を揶揄しているのだろうか。
 そういえば、タイトルの数字は何だろう――そう思って調べてみると「第二宇宙速度」というのが出てきた。どうやら、物体が約11.186km/sを越える速度で移動すると地球の重力を振り切ることができるらしい。地球の重力圏を抜け出す、という意味で「脱出速度」とも言われている。どうもこの展示は「重力」と深い関わりがあるようだ。
ここで、重力との関係に着目して描かれているモチーフを見てみよう。鉄塔、電柱は重力に逆らうように上へと伸びている。そしてその先端から伸びる電線は、重力に引っ張られながらも地表に触れることなく浮いている。枯れた草はそれ単体では重力に逆らえないが、瓶の存在によって支えられ、上を向いている。しかし、どれも決して地球の重力圏から抜け出すことはできない。二匹のウーパールーパーもまた同じである。暗闇の中で静かに暮らし、重力と人類の関係について啓発する彼らはひょっとすると展示者二人の化身なのだろうか…?
さまざまな考えが頭の中に浮かんでは消え、渦巻いていく。そんな不思議な展示であった。(玉谷研太)

CIMG2019


「この柵のむこう」 小嶋 芳維 2012年7月17日~7月20日

展覧会「この柵のむこう」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2012年7月17日~2012年7月20日
出展者:小嶋芳維(人間総合研究科芸術専攻総合造形領域博士前期課程1年)

立体+ビデオインスタレーションによる展示。

T+review

ギャラリーの床にはコの字型に曲がった柵のようなものがいくつか立てられている。ギャラリーの入り口側の壁にはプロジェクターが設置され、柵を挟んで向かい合う壁に映像を投影している。その映像が、この「柵の向こう」(=壁)と私たちがいる床との関係を変化させていく。シンプルな内観は、壁や床が周りの状況に応じて相対的に変化していく可能性を持っているのだ。
 映像の最初は何も映っていない。突然画面の外からペンキの缶を手に提げた人物が登場し画面の中央で止まってしゃがみ込む。この時点ですでに、鑑賞者は違和感を覚えることだろう。なぜならその映像が、映像中の人物を真上から見下ろしている視点で撮られており、それが垂直な壁に投影されているからである。鑑賞者が立っているところと映像の人物が立っているところ、どちらが地面なのか?そんな不思議な感覚が生まれてくる。
 映像中の人物はペンキの缶に手を突っ込み、画面の中心に円を描き出す。そして、黒いペンキで描かれたその円を同心円状に描き広げていく。筆や刷毛は使わず手でゆっくりと行う作業だ。その作業している様子を眺めていると、ふと、映像中の地面に黒々とした穴を開けているように見えてきた。円の黒は地下へと続く空間のように見え、その中、つまり地面に空いた穴の中に吸い込まれていくような奥行きを感じる。
 そんなことをぼんやり考えている間にも円はどんどん大きくなり、画面に占める黒の割合は大きくなっていく。穴のように見えていた黒い円は存在感を増し、私たちに迫ってくる。そのようすは黒い壁のようで穴のようには感じられなくなってくる。先ほどまで地面に空いた穴のように見えていた黒い円は大きくなったことで壁のようになり、主張を強めているようだ。鑑賞者の立つ床と映像中の床がいつの間にか逆転している。画面からはみ出るほどに円が大きくなっても、映像中の人物は円を描くことを止めない。どんどん画面が黒く覆われていって、ついに映像は黒一色で埋め尽くされる。
 円が描かれ始めてから画面を覆い尽くすまで、約60分。その間、ゆっくりと進む画面内の変化とともに、鑑賞者が立つ床と柵の向こうの画面中の床の関係の変化を感じていた。(岡野恵未子)


「Nature Plan Ⅱ」呉尚殷 2012年7月9日~2012年7月13日

展覧会「Nature Plan – Shan shuiⅡ」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2012年7月9日~2012年7月13日
出展者:呉尚殷(構成専攻総合造形領域研究生)

 自然界に存在する“微視的世界”(ミクロコスモス)の再創造。 私たちが自らの身体を以てここで視覚的、聴覚的に得る感覚と、元々持っている経験的な自然の中での感覚が知覚の中で交差し、より深い、新しい感覚を喚起する。
 今回の作品は東方山水画をテーマにしている。このコンセプトは前回のものから引き継いでいるが作品が展示空間を生み出す形式であるという点が異なる。素材自体の個性、又は主張が抽象化される過程で素材は物質性から解放される。そしてものとものがシンボルとして関係し合うことにより作品空間の中において相互引力を生み出す。

T+review

蒸し暑い外気から逃れるようにギャラリーの扉をくぐると、中に立ち込めていた冷気が身体を覆い、すうっと身体が冷えて行った。また、ギャラリーのガラスの壁はぐるりと暗幕で覆われ、薄暗い室内の中でスクリーンに映された映像やオブジェなどがピンク色や黄色の光を発している。そしてどこからか、こぽこぽと水がわき出ているような、流れているような音が聞こえている。空気、景色、音、すべてがギャラリーの外と違う環境にされていて不思議な気分になる。
入り口を背にして、ギャラリーを見渡す。窓際にスクリーンが配置され、流動する水のような映像が映し出されている。ピンク色を背景に、より濃いピンク色の液体が上方から垂らし込まれ、じわじわとマーブル上に広がっていく。映像は丸く切り取られた形で映し出され、また、プロジェクターの前には白く丸い物体に沢山の待ち針が刺さったものが置かれ、スクリーンにそれが影となって映っている。流動的な映像に対して、針の山の影は動かない。これらは、山や石、建物などの容易には変化しないものと空や風や川などの、流動していくものとの対比を表しているように感じた。スクリ―ンをはさむように、向かって右には割れたビンのようなものが台の上に置かれ、反対側には釘の山のようなものが置かれている。具体的な形を作っている訳ではないのだが、樹脂で固められたそれらは人の気配や生産という行為の気配が感じられ、ミニチュアの風景のようにも見えた。
その釘の山を見に行こうとして、スクリーンの前を横切る。すると、足元でピチャッという水の跳ねる音がしたので驚いた。足元を見ると、薄く水がひいてあった。録音の水音が流れるなかに突然生の水音が聞こえたことで、足元の感覚、耳の感覚などに鋭敏になる。思わず、一歩一歩に神経を使いながら足元の水を意識して歩いてしまう。
 作者は、「ここでの感覚と、自然の感覚との知覚の中での交錯」を目指すと述べていた。確かに外部と違う世界のようなこのギャラリーの中は、視覚や聴覚、気配や時間など、さまざまな感覚に気付かされたり、敏感になれたりする場所であった。(岡野恵未子)

照片


「no hint」 関川航平 2012年7月2日~7月6日

展覧会「no hint」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2012年7月2日~2012年7月6日
出展者:関川航平(美術専攻特別カリキュラム版画4年)

水か光をぶちまけます

T+review

ギャラリーの外から中を覗いてみると、ギャラリー内にいる鑑賞者が、きょろきょろとギャラリーを見渡しているのが目に入り、不思議に思って足を踏み入れる。
 中に入って、その鑑賞者の行動の謎が解けた。床上に、コルクでできた銃弾が多数散らばっているのである。また、壁にある飾り棚の上には、その銃弾を打ち出すであろう銃が乗っている。本物ではないとわかっていても、思わずどきりとさせられた。
 中にいた鑑賞者と無言で視線を交わし、改めてギャラリーを観察しようとすると、淡々と流れるアナウンスが耳に入ってきた。きわめて事務的な、女性の声である。「銃を、手に、取ってください。……レバーを、手前に、引いてください。……」どうやら弾の撃ち方を説明しているようだ。
 ひたすら鑑賞者に言い聞かせるようなアナウンスを聞きつつ、銃を見つめる。頭の中では、アナウンスに従って自分がこの銃を撃ったシーンが自然と想像されている。銃を構えて、ガラスに当たらないように、引き金を引いて、そして…。しかし、そこでふと考える。本当に、アナウンスに従って銃を撃つことが要求されているのか?でも、アナウンスと銃が純粋に「展示してある」だけだったら、従わなくていいのでは、いやむしろ従わないべきなのでは?
 展示されたものは「勝手にさわって動かしてはいけない、完成されたもの」であるという思い込みや先入観が邪魔をして、銃を実際手に取るまでに私たちは大きく迷う。「ものを手に取る」という、毎日何百回と無意識に行っている動作をギャラリーで行おうとしているだけで、ひとつの動作にいちいち判断が必要とされるのである。
 ついに「銃を撃ってみよう」と自分に判断を下し、銃を取る。しかし、残念ながら筆者は力が足りず、銃を撃つことはできなかった。銃を棚に戻し、床に散らばった銃弾を見渡す。それは、鑑賞者が自分に判断を下し、「銃を撃つ」という動作の結果の表れだろうか、それとも作者が作為的に置いたものだろうか?どちらにせよ、散らばった銃弾は「誰かはアナウンスに従って実行した」かもしれないことを示し、鑑賞者の実行するかしないかの判断に影響を与えているのは間違いないだろう。(岡野恵未子)


「ヒマリア」 相原郁美 2012年6月25日~2012年6月29日

展覧会「ヒマリア」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2012年6月25日~2012年6月29日
出展者:相原郁美(人間総合科学研究科芸術専攻総合造形領域 博士前期過程2年)

映像と平面作品とインスタレーションを足して割ってみようと考えています。

T+review

ギャラリーの2面の白い壁には、30枚の小さな四角い板が一直線に並べられていた。他には何も見当たらない。ギャラリー内はとても静かだった。30枚の板には、白黒の絵が描かれている。それは連続したひとつの物語だった。
物語は右から左へと向かって展開してゆく。ある少年が馬車に使われていた馬を自由にしたことから物語は始まる。絶望する所有者を尻目に、自由になった馬は駆け出していった。一方、人ごみを抜けた先で少年を待っていたのは、人々から向けられる非難の目であった。少年は、人々の目に囲まれながら次第に年老いてゆく。少年から青年へ、そして老人へと年を経ていった。少年を見ていた人々の顔は、次第に街の街灯へと変わっていく。老人となった彼を取り囲むのは街灯だけであった。そして場面は森へと変化してゆく。自由になった馬は森の中を駆けていた。おそらく少年が老いてゆき、老人となるまでずっと走り続けていたのだろう。森を抜けると馬は静かに横たわっていた。そして何もない大地だけが広がるのだった。
とてもとても長い時間が、この30枚の絵の中に収められていた。物語の断片を見ただけなのに、そのすべてを見てきたような気分だった。場面が移り変わり、長い時間が経過しているが、物語は違和感のない自然な流れでめくるめく展開していた。作品を見終わると、静かな寂しさを感じた。自由の脆さ、命の儚さ、そんなことをぼんやりと考え、壁2面の、30枚の物語を何度も見返していた。ギャラリー内の静かさは作品の雰囲気を引きたてており、そして感慨に浸らせてくれる空間となっていた。ドアを開ければいつもの光景が広がっていたが、ギャラリーの中はそれを忘れさせるような、特別な空間に変化していたのだった。(井上祐里)