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「参加と還元」 町田紗記 2013年2月6日~2013年2月8日

展覧会「参加と還元」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2013年2月6日(水)~2013年2月8日(金)
   ※初日10:00開館、最終日17:30閉館
出展者:町田紗記(美術専攻洋画コース2年)

他人がいなかったら、成立しなかった絵。

期間中、T+内でワークショップを行います。
一緒に絵を描きましょう!

日時 2/6: 1,4~6限
   2/7: 1,6限
   2/8: 2,3,6限

T+review

どんよりと曇った冬の夕方、私はただ何となく塞ぎ込み、一人、無気力にペデストリアンを歩いていた。とくに何を求めているわけではなく、展覧会が始まったばかりのT+に入ってみた。展示作品は作者が文化祭で来場者にテーマをだしてもらい、連想して描いたという一枚の大きな絵画とA4サイズの紙に様々なものが描きこまれた絵画が4点ほど。そして会場の中にはなぜか椅子と机が置いてあった。
音楽が流れているギャラリーの中、置かれた低い椅子と机の上で、展示主催者と鑑賞者が同じ一枚の紙に何かを描いている。
私が展示空間に入っても、二人は顔を上げずただひたすら自分の作業に没頭している。少し待っていると、主催者が「20秒です。」と鑑賞者に声をかけ、紙を90度回転させた。そしてまた再び二人は紙に何かを描いていく・・・ルールは簡単。参加者は用意された音楽プレーヤーから1曲選び、曲が流れている間、紙に思いついたものを描いていく。そして20秒経つごとに紙は90度回転させられる。そこにまた描いていく。というものだ。注意することは「考えない」ということ。実際に私も参加した。はじめは何を描こうかと考え、ペンが動かなかったが、具体的なものを描く時間としての20秒はあまりにも短い。気が付くと必死にただただペンを動かしていた。20秒が経ち、90度紙が回転させられる。私はなにとも考えずにただひたすら手を動かす。この「作業」にも近い制作を続けていると、動かしている身体とは別に、心の中で様々な感情が渦巻いてきた。その怒りとも悲しみとも見分けの付かない感情が浮き沈みし、それがダイレクトに手の動きとなって紙に描いていく。自分の手が描いた物を見て、心がまた不安定になった。「ぐるぐるぐるぐる」「なんだよー」。先ほどまで抱いていた他人の絵への加筆に対する遠慮はどこかに消え、「関係ない。」「むしろ壊したい。」という破壊的な気持ちで一緒に描いている相手の絵にも加筆をしはじめた。その行為は理性というよりむしろ本能の方が勝っていた。
曲が止み、「終わりです。」という言葉によって私は一気に現実に引き戻された。無心に絵を描くとはこういうことなのか・・・?手を動かしているときは想いが心から溢れ出てきてとにかく不安でつらかった。しかし終わってみると、何ともすがすがしい疲労感であった。(寺田早苗)


「flashlight」 水本隆朗 2013年1月22日~2013年1月25日

展覧会「flashlight」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2013年1月22日(火)~2013年1月25日(金)
出展者:水本隆朗(芸術専門学群構成専攻ビジュアルデザイン領域3年)

立体作品によるインスタレーション。

T+review
  軋む扉を押し、重みのある黒いカーテンをかきわけ展示室の中へ入り込むと、外の世界から完全に遮断された音のない空間の中、5つの円錐が輝いていた。
 光とは不思議なものだ。昼間の太陽の下この淡く灯る部屋に入り込むと儚く感じられ、そして夕方では暖かく、夜には眩しいものになる。同じ光だとしても何ひとつ同じものはない。ただ、そこに在るだけで様々な表情をみせてくれる。
 明かりが灯っている。
 それだけのことが、こんなにもたくさんの意味を持つ。「光」がなければわたしたちは存在することが出来ない。
陽が落ちた頃、ふらりと立ち寄った。カーテンを押した向こう側で輝く光に眩暈がした。
 その時、ふと部屋に戻るたびに覚える孤独感を思い出した。ドアを押しても誰もいない。閉まってしまえば光が途絶え暗闇のなかに取り残される・・・明かりを灯すまでの数秒間、わたしはこの世界にひとりきりになる。
 何度カーテンを開いても、この部屋の明かりは灯っている。
 自転車で横を駆け抜けていくときも、友人を談笑しているときも、黒いカーテンの向こう側には確かに存在できる空間がある。「存在できる空間がある」ということはなんて愛おしく、安心できるものなのだろうと、そう思えた。(太田夏希)


「馬鹿な機械展」 土屋恒人、早川寛人、打田雅俊、私市瑞希 2013年1月15日~2013年1月17日

展覧会「馬鹿な機械展」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2013年1月15日(水)~2013年1月17日(金)
出展者:土屋恒人、早川寛人、打田雅俊、私市瑞希
    (デザイン専攻3年)

あけましておめでとうございます。このたび私達「ねじクラブおまつり」はT+様のご支援を受けまして第一回物理博覧会「馬鹿な機械展」を開催する運びとなりましたのでお知らせ申し上げます。さて、私達が今回発表申し上げるのは「馬鹿な機械」ひたむきな機械達との触れ合いが行われます。火事にならないように気をつけます。(※実際には火事になることはありません)

T+review

誰もいないギャラリーの中は賑やかであった。部屋のどこにいても、ぎっちりと並んだ機械たちの発する音が聞こえてくる。首を振る扇風機の生む風音、次々に画面が切り替わるテレビの声、足踏みミシンの激しい音、アンケートボックスから聞こえるかすかな振動音。勝手に動いている機械たちもあれば、スイッチを押すなど私たちが何か働きかけることで動き出すものもある。彼らの機能は様々だが、共通していることもある。それは、彼らの動きが人間の要望・欲望に従った動きであるということ、そして、その動きしかできないということだ。
人間の要求に律儀に答えようと、与えられた役割通りに淡々と動く馬鹿共。しかし、その答えが常に完璧であるとは限らない。この展示ではその不完全さが垣間見える。例えば、“小せつ”“たつ巻論文”などの、単語の不自然な変換。また、展示された“小せつ”の中に出てくる「くるみですら」というフレーズの後には、「『くるみ』は名詞、『です』は丁寧語、『ら』は彼らのら」という、丁寧だが何ともトンチンカンな説明が挿入されている。壁にある「静かに」という張り紙は、執拗なまでに何枚も打ち出されている。
生真面目だけどもどこかずれている彼らの姿に、私たちはちょっと笑ってしまう。しかしその不自然さと同時に気味の悪さも感じはしないだろうか。なぜならその間違いはあまりに非人間的で、無感情だからだ。彼らは機械なりに頑張っている。自分に与えられた使命を淡々とこなしている。だが、当たり前ながら、彼らは自分のしている仕事が何であるのか、自分は失敗しているのかどうか、なんてことは考えていない。だから滑稽な、理解しがたい失敗をする。しかし、彼らを創り出したのは人間なのだ。人間の生み出したものが人間に理解できないような間違いを犯している…。
もちろん、この展示の機械たちの失敗は、意図的に演出されているのだろう。“小せつ”を見て、私たちは笑っていられる。しかし心の中では普段の生活での、機械との大小さまざまな不具合を思い出しているのではないだろうか。見過ごしてしまっているのかあるいは見ないふりをしているのか、普段深刻に考えることのない機械と人間との噛み合わなさを。(岡野恵未子)

場Kな~1


「歩いてかえる」 山越梓 2012年12月10日(月)~2012年12月14日(金)

展覧会「歩いてかえる」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2012年12月10日(月)~2012年12月14日(金)
出展者:山越梓(構成専攻2年)

学校から家まで、歩いてかえる。
その途中で知っている人に会うかもしれないし、誰とも会わないかもしれない。
どちらにせよ、かえったらあったかいご飯が食べたいです。

Twitter :@aruite_kaeru

T+review

黒い暗幕に覆われたギャラリーに入ると、ザッザッと歩く足音が聞こえてきた。正面の壁には道路の写真が移り変わる映像が写しだされている。ギャラリー入り口のキャプションからは、作者が筑波大学から群馬にある自宅まで歩いて帰った様子を作品にしていると分かる。その距離は112km、かかった時間は23時間半(休憩含まず)とある。
薄暗いギャラリーにプロジェクターで映し出されているのは、家への帰路で通った昼間の裏路地や車が走る夜の道路の写真だ。映像を眺めながら、私はふと小学校のころの登下校を思い出した。どこか懐かしい気持ちになる。同時に流されている音声には足音以外にも様々な音が記録されていた。道路を走る車の音。スーパーの店内の音楽。学校のチャイム。電車の走る音と共に踏切の警報音が響く。時折、出会った人との会話が聞こえてくる。相手は言葉がなまっていて作者は何度も聞き返している。
ギャラリー壁面のパネルには縦書きの長い文章。家に歩いて帰るまでのエピソードがつづられている。
鑑賞者は左から右へと少しずつ移動しながらそれを読む。ここから彼女の家まで歩くのはどれほど大変だっただろうかと想像しながら私もそれを読み進める。

作者はなぜ歩くのか
歩くことで景色はゆっくりと流れ、普段気にしないことにも気付いたりする。
知らない場所の知らない人とつながったりする。
そういった偶然の出会いを彼女は楽しんでいるように感じる。
文章の中の光景が作者の見知った土地にさしかかるところで、私はなんとも言えない安心感を得た。
ずっと歩いてきた道の光景が自分の中の記憶と一致したとき、彼女はおぼろげな追憶をたどる。
幼い頃に通った教会、歯医者さんの看板、通学路― 
あの頃、あの場所で出会ったものや人を懐かしみながら歩く。

追憶 ― ノスタルジア
過ぎ去った時間に思いをはせる。幼い頃の記憶はどこか曖昧なものではあるけど、それが自分をほんのり甘く幸せな気持ちにしてくれることは間違いない。きっと彼女は忘れかけていた何かを拾い上げるように、一歩ずつ今を生きる自分の家へと旅路を進めたのだ。(高橋和佳奈)

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「まっかだな」 田中あかり 2012年11月19日~2012年11月22日

展覧会「まっかだな」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2012年11月19日(月)~2012年11月22日(木)
出展者:田中あかり(美術専攻洋画コース2年)

「秋のおわりに
まっかな秋の
まっかな恋を
あつめてみたり
おもってみたり
ちらしてみたり
ないてみたり
わらってみたり ね」

T+review

「まっかな秋の/まっかな恋を/あつめてみたり」した展覧会。恋人や、恋愛感情をテーマにした小さな作品達がギャラリーの壁をぐるりと囲んでいる。恋愛とはごくごく個人的で、主観的な感情だが、それが作品のテーマになると、その主観的な感情は「共有」されうるものになるということに気が付いた。

今回の展覧会で特にそれを感じたのは、ギャラリーの中心で起きていた現象だ。ギャラリーの中心では、天井から紐が吊り下げられており、手のひらほどのハート形の色画用紙がたくさん留められていた。そのすぐ下の展示台と床には、同じハート形の画用紙が散らばっている。そのたくさんのハート形には、何枚か言葉がつづられているものがある。鑑賞者が、自由に言葉を書くことができる。特に書く内容は指定されていないが、展覧会のテーマの影響か、恋愛に関係する言葉が圧倒的に多い。それは、(おそらく)意中の人に対する想いであったり、恋の幸せであったり、切なさであったり。ちょっと照れてしまうような、しかし読んでいるとなんだか心温まるような、素直な言葉が鑑賞者の手によって記されているのだ。

この言葉たちは、誰に読んでほしくて書かれたものなのだろうか。書かれたときは、特定の誰かを思って書かれたものが多いだろうが、その特定の誰かだけが読んでくれるものだとは言えない。ギャラリーに展示されている以上、不特定多数の人間が目を通すことは避けられないからだ。しかも、自分の名前が書かれていない画用紙は、ことばの受け手だけでなく、発信者も特定できない存在にする。
匿名であるから、そして誰でも見れる状態にあるから、つづられた言葉は書き手のもとを離れて、独立していく。そして、そのように主を離れた言葉たちは、純粋にその「想い」だけのものになり、作品の一部として他の鑑賞者と「共有」できるものになっていくのだ。

 作者の作品達もそのような役割を持っているだろう。恋愛という、極めて個人的な感情の動きのテーマは、作品となることで「共有」できるものとなる。発信者も受け手も不特定になったそれを見る鑑賞者は、自身とその作品とを照らし合わせ、共感したり自分の気持ちに確信を持ったりするのだ。(岡野恵未子)

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