「脱いだくつを」 齊藤明美 2013年2月12日~2013年2月15日
会場:アートギャラリーT+
会期:2013年2月12日(火)~2013年2月15日(金)
出展者:齊藤明美(構成専攻1年)
黒いペンで描いた平面作品等の展示です。

他人がいなかったら、成立しなかった絵。
期間中、T+内でワークショップを行います。
一緒に絵を描きましょう!日時 2/6: 1,4~6限
2/7: 1,6限
2/8: 2,3,6限
T+review
どんよりと曇った冬の夕方、私はただ何となく塞ぎ込み、一人、無気力にペデストリアンを歩いていた。とくに何を求めているわけではなく、展覧会が始まったばかりのT+に入ってみた。展示作品は作者が文化祭で来場者にテーマをだしてもらい、連想して描いたという一枚の大きな絵画とA4サイズの紙に様々なものが描きこまれた絵画が4点ほど。そして会場の中にはなぜか椅子と机が置いてあった。
音楽が流れているギャラリーの中、置かれた低い椅子と机の上で、展示主催者と鑑賞者が同じ一枚の紙に何かを描いている。
私が展示空間に入っても、二人は顔を上げずただひたすら自分の作業に没頭している。少し待っていると、主催者が「20秒です。」と鑑賞者に声をかけ、紙を90度回転させた。そしてまた再び二人は紙に何かを描いていく・・・ルールは簡単。参加者は用意された音楽プレーヤーから1曲選び、曲が流れている間、紙に思いついたものを描いていく。そして20秒経つごとに紙は90度回転させられる。そこにまた描いていく。というものだ。注意することは「考えない」ということ。実際に私も参加した。はじめは何を描こうかと考え、ペンが動かなかったが、具体的なものを描く時間としての20秒はあまりにも短い。気が付くと必死にただただペンを動かしていた。20秒が経ち、90度紙が回転させられる。私はなにとも考えずにただひたすら手を動かす。この「作業」にも近い制作を続けていると、動かしている身体とは別に、心の中で様々な感情が渦巻いてきた。その怒りとも悲しみとも見分けの付かない感情が浮き沈みし、それがダイレクトに手の動きとなって紙に描いていく。自分の手が描いた物を見て、心がまた不安定になった。「ぐるぐるぐるぐる」「なんだよー」。先ほどまで抱いていた他人の絵への加筆に対する遠慮はどこかに消え、「関係ない。」「むしろ壊したい。」という破壊的な気持ちで一緒に描いている相手の絵にも加筆をしはじめた。その行為は理性というよりむしろ本能の方が勝っていた。
曲が止み、「終わりです。」という言葉によって私は一気に現実に引き戻された。無心に絵を描くとはこういうことなのか・・・?手を動かしているときは想いが心から溢れ出てきてとにかく不安でつらかった。しかし終わってみると、何ともすがすがしい疲労感であった。(寺田早苗)
版画3年河内大樹と洋画3年藤村魁人による平面作品展示です。
必殺技出します。
どうぞよろしくお願いします。
立体作品によるインスタレーション。
T+review
軋む扉を押し、重みのある黒いカーテンをかきわけ展示室の中へ入り込むと、外の世界から完全に遮断された音のない空間の中、5つの円錐が輝いていた。
光とは不思議なものだ。昼間の太陽の下この淡く灯る部屋に入り込むと儚く感じられ、そして夕方では暖かく、夜には眩しいものになる。同じ光だとしても何ひとつ同じものはない。ただ、そこに在るだけで様々な表情をみせてくれる。
明かりが灯っている。
それだけのことが、こんなにもたくさんの意味を持つ。「光」がなければわたしたちは存在することが出来ない。
陽が落ちた頃、ふらりと立ち寄った。カーテンを押した向こう側で輝く光に眩暈がした。
その時、ふと部屋に戻るたびに覚える孤独感を思い出した。ドアを押しても誰もいない。閉まってしまえば光が途絶え暗闇のなかに取り残される・・・明かりを灯すまでの数秒間、わたしはこの世界にひとりきりになる。
何度カーテンを開いても、この部屋の明かりは灯っている。
自転車で横を駆け抜けていくときも、友人を談笑しているときも、黒いカーテンの向こう側には確かに存在できる空間がある。「存在できる空間がある」ということはなんて愛おしく、安心できるものなのだろうと、そう思えた。(太田夏希)
あけましておめでとうございます。このたび私達「ねじクラブおまつり」はT+様のご支援を受けまして第一回物理博覧会「馬鹿な機械展」を開催する運びとなりましたのでお知らせ申し上げます。さて、私達が今回発表申し上げるのは「馬鹿な機械」ひたむきな機械達との触れ合いが行われます。火事にならないように気をつけます。(※実際には火事になることはありません)
T+review
誰もいないギャラリーの中は賑やかであった。部屋のどこにいても、ぎっちりと並んだ機械たちの発する音が聞こえてくる。首を振る扇風機の生む風音、次々に画面が切り替わるテレビの声、足踏みミシンの激しい音、アンケートボックスから聞こえるかすかな振動音。勝手に動いている機械たちもあれば、スイッチを押すなど私たちが何か働きかけることで動き出すものもある。彼らの機能は様々だが、共通していることもある。それは、彼らの動きが人間の要望・欲望に従った動きであるということ、そして、その動きしかできないということだ。
人間の要求に律儀に答えようと、与えられた役割通りに淡々と動く馬鹿共。しかし、その答えが常に完璧であるとは限らない。この展示ではその不完全さが垣間見える。例えば、“小せつ”“たつ巻論文”などの、単語の不自然な変換。また、展示された“小せつ”の中に出てくる「くるみですら」というフレーズの後には、「『くるみ』は名詞、『です』は丁寧語、『ら』は彼らのら」という、丁寧だが何ともトンチンカンな説明が挿入されている。壁にある「静かに」という張り紙は、執拗なまでに何枚も打ち出されている。
生真面目だけどもどこかずれている彼らの姿に、私たちはちょっと笑ってしまう。しかしその不自然さと同時に気味の悪さも感じはしないだろうか。なぜならその間違いはあまりに非人間的で、無感情だからだ。彼らは機械なりに頑張っている。自分に与えられた使命を淡々とこなしている。だが、当たり前ながら、彼らは自分のしている仕事が何であるのか、自分は失敗しているのかどうか、なんてことは考えていない。だから滑稽な、理解しがたい失敗をする。しかし、彼らを創り出したのは人間なのだ。人間の生み出したものが人間に理解できないような間違いを犯している…。
もちろん、この展示の機械たちの失敗は、意図的に演出されているのだろう。“小せつ”を見て、私たちは笑っていられる。しかし心の中では普段の生活での、機械との大小さまざまな不具合を思い出しているのではないだろうか。見過ごしてしまっているのかあるいは見ないふりをしているのか、普段深刻に考えることのない機械と人間との噛み合わなさを。(岡野恵未子)