「One Story, One Weapon」 岡崎奈々 2013年7月16日~7月19日

展覧会「One Story, One Weapon」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2013年7月16日(火)~2013年7月19日(金)
出展者:岡崎奈々(構成専攻総合造形領域3年)

オリジナルの物語一編につき、その中に登場する武器を一つ制作する、”One Story, One Weapon” の展示です。

2013.07.16-One Story, One Weapon


「KOMESHIBA」 米川早絵子、芝美季 2013年7月8日~2013年7月12日

展覧会「KOMESHIBA」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2013年7月8日(月)~2013年7月12日(金)
出展者:米川早絵子(美術専攻洋画コース2年)
    芝美季(美術専攻洋画コース2年)

米川と芝の二人展です。油絵とイラストを展示します。

T+review

やわらかな、それでいて互いの世界観が調和した心地のいい空間がそこに広がっていた。イラストレーションと油絵、その言葉をみたときはじめは一体どんな展示になるのだろうと思っていたがそんなものは杞憂だった。
 人物を主なモチーフとした左手の壁のイラストレーション4点は米川の作品だ。米川の描く人物の瞳は彼女によく似ている。よく人物を描くとき描き手に顔が似るというのはあながち嘘ではないかもしれない。そのアクリル絵の具で丁寧に描かれたイラストレーションに嫌味はなく、むしろその細やかな作業に好感を抱く。米川は人物を描くことが好きなのだろう。その「好き」という気持ちがぶつかってくるような気がした。他にも「好き」を強く感じた作品がある。それは正面の壁に展示された芝の油絵だ。特に目を引いたのはアマガエルを描いた2点だ。あれ、アマガエルってこんなに素敵な生き物だったっけと思わず驚いてしまった。この展示を包む一体感は展示者たちの「好き」という感情だったのかもしれない。
 絵が持つ力は計り知れない。対象への愛情、描くことが好きという気持ち。目には見えないその「気持ち」には確かな力がある。そんな力が愛情を持ってなにかを見つめることで得られる可能性を本展示を通し改めて感じた。(太田夏希)

こめしば1


「祥 子」 大野香枝、鎚谷紗希 2013年7月1日~7月5日

展覧会「祥 子」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2013年7月1日(月)~2013年7月5日(金)
出展者:大野香枝(構成専攻3年)
    鎚谷紗希(美術専攻日本画コース3年)

複雑で純粋な少女の心を擬人化し、女の子に「祥 子」と名づけました。
  祥 子をテーマにした、詩と絵の展示です。

T+review

「祥子」とは展示者の名前ではない。祥子とは複雑で純粋な心を持つ架空の少女である。当初、「祥子」とは展示者の名前かと思っていた。何故かというと展示された原稿用紙の綺麗な手書きの文字とその隣の絵が一人の人物によってつくられたものに思えてしまい、実はそこにふたりの展示者の姿があることに気づけなかったからだ。ではこの少女「祥子」は一体誰なのかという疑問がふと浮かんだ。純粋で複雑な心を持つ少女。それが彼女たちが生み出した少女、「祥子」である。
 祥子は悩む、祥子は描く、祥子は綴る。
 本展において展示者本人の姿は見えず、そこにいるのは「祥子」。ただひとりの少女である。それ以上でもそれ以下でもない。それにしてもここまで展示者の姿を掻き消すことが可能なのだろうか。いや、可能だからこそこの展示は成立したともいえるだろう。
 難しい言葉など存在しなかった。日常に隠れた何気ないなにかが切り取られたようにそこに広がっていた。それは、展示者でもない他の誰でもない「誰か」につくられた少女が紡いだ言葉だからこそ、そう感じたのかもしれない。少ない言葉だからこそ伝わってくるものがある。彼女がつくられたものだと知った後、もう一度ギャラリーへ入ってみた。扉を開けた瞬間、形もない少女にギャラリーの向こうからこちらをそっと覗き込まれたような、そんな気がした。(太田夏希)

祥 子


「ビビリバリビリー」 坂之下典子 2013年6月24日~2013年6月28日

展覧会「ビビリバリビリー」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2013年6月24日(月)~2013年6月28日(金)
出展者:坂之下典子(美術専攻洋画コース3年)

個人的なことで誠に恐縮ですが、ビビリを少しでも克服したくて展示することにしました。
絵を展示します。
見に来てください。

T+review

暗幕に包まれた展示室のドアをあけると、ギャラリー正面に展示された作品が目に飛び込んできた。パネル仕立ての二曲屏風のような画面には女性の顔が描かれている。しかし作品は中心で二つに分かれ、その間からは、中央には呪文のようなものが書かれた曼荼羅が顔を出している。両脇の画面に描かれている女性は同一人物のはずなのに左右で違った表情を見せる。女性はどこか悲しげな表情にも受けとれるし、そうかと思えば殺気に満ちた不穏な空気を漂わせている。女性の脇に描かれた、ひっそりと咲く彼岸花は、死人花、地獄花との異名を持ち、不気味な静けさを漂わせている。
 今回の展示について作者は、はじめ「少しでもビビリを克服(バリビリー)するため」展示を決意したと述べているが、その想いはやがて絵を描いている最中の、何もかもとっぱらった、精神がまるっきりまっさらの状態が訪れた時こそ、ビビリを克服できるのではないかという考えに変わっていったそうだ。
 一方で作品からはビビリという言葉は感じられず、むしろ非常にダイナミック且つエネルギーに溢れている。そのエネルギーは彼女がただ小心であることに虚勢を張っているわけではなく、それを克服しようと迎え撃つ姿勢によって創り上げられているのだろうか。彼女の創造性は、小心から外界の人目を拒否するのではなく、逆に小心を克服しようとするその情動によっていっそう深く絵と向き合おうとするところから生まれて来るのかもしれない。(高橋和佳奈)

20130624-ビビリバリビリー


「Type in accident」 金森陽子 2013年6月19日~2013年6月21日

展覧会「Type in accident」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2013年6月19日(水)~2013年6月21日(金)
出展者:金森陽子 (構成専攻ビジュアルデザイン領域4年)

偶然性の中で文字はどのように変化するのか、そのかたちを追いました。

T+review

ギャラリーの壁に、いくつかの“漢字”が記されたパネルが飾られている。「記された」という表現が正しいのかどうかははっきりとは言えない。「描かれた」と言った方が適切かもしれない。なぜなら、これらの漢字たちは単なる文字として表わされていないからだ。屈折している“屈”の字。潰れている“潰”の字。漢字たちは自身にこめられた意味に合わせて変形し、より視覚的に訴える存在となっている。
漢字という文字記号が表わす意味と、見た目による視覚的な図解。“屈”の字を見たときに私たちはその意味を理解するが、その理解は実感的なもの、つまり“屈する”という現象を感じていることからは離れたものである。“崩”という字を見て、どのような意味なのかを理解することと、“崩れる”を感じることは違うのである。しかし、今回の展覧会の漢字たちにはその二つが同時に存在している。パネルの変形した文字を絵として観ることもできなくはないし、しかし漢字が読めてしまうため否応なしにその意味が頭へと入ってくる。そのことで、二重に重なった理解―その字の意味の理解と、漢字が表わしている現象を五感で知ること―が一度に頭の中で起きるのだ。
漢字の成り立ち方には、モノの形をそのままかたどった象形文字から生まれたもの、音と意味との組み合わせによって生まれたもの、意味の組み合わせによって生まれたものなどがあると小学校や中学校で学んだ。つまり、現象やモノをその実態から切り離して、記号として表わすために生まれたと言える。だとしたら、今回の文字たちはそのプロセスを逆戻しさせたものだとは言えないだろうか。何かの実態から離れた記号としての漢字を、もう一度記号ではなくもっと視覚的に、つまり感覚で感じられるように表現しているのである。

しかし今回のすべての文字が以上のように、意味の理解と実感的な体験とが重なったものだというわけではなかった。“屈”“潰”“崩”などの中で、“風”と“熱”の二つだけが異質であり、若干統一感が揺らいでいるように感じた。風で飛ばされる“風”と、熱で溶けていく“熱”。この二つだけは、自身の意味そのものを視覚化したのではなく、それによってもたらされる現象が表現されていたからだ。(岡野恵未子)