「あどけない話」浪川周 2015年6月15日〜6月19日
会場:アートギャラリーT+
会期:2015年6月15日(月)~2015年6月19日(金)
出展者:浪川周(筑波大学芸術専門学群美術専攻洋画コース研究生)
我々にとって過去とはどんな意味があるのでしょうか。
誰もがそれぞれに持つ過去を不定形なものと捉えることで、
我々は周りの物事と柔軟に向き合うことができるのではないか。
『やがて過ぎ去れば、いづれまた、あどけない話。』

我々にとって過去とはどんな意味があるのでしょうか。
誰もがそれぞれに持つ過去を不定形なものと捉えることで、
我々は周りの物事と柔軟に向き合うことができるのではないか。
『やがて過ぎ去れば、いづれまた、あどけない話。』
たくさんのうさぎみたいなともだちをおひろめします。
ともだち100人できるかな~。
T+review
「うさぎ展」という可愛らしい題名と、垂れ幕からちらりと見えるふわふわの展示物に惹かれてギャラリーの中へ。それぞれ三段づつある二つの棚には、色とりどりのうさぎの形をしたぬいぐるみが並べられていた。耳の垂れているもの、眠そうな目をしているもの、眼鏡をかけているもの、小さな冠をかぶっているもの。一つとして同じ外見のものはいない。おめかしをしておりこうさんに並ぶ様子はまるで、これから見知らぬ誰かに貰われていくのを今か今かと待っているようだった。
彼らの名前は「neighbor」という。心の隣人という意味の、誰かの心に寄り添うために生み出されたうさぎたち。顔には目しかパーツがないためはっきりとした表情は読み取れないがどこかあたたかみのある彼らからは、作者のとてつもなく大きな愛情を感じた。きっとたくさんの時間をかけて、大事に大事に作られたのだろう。そんな彼らは、今度の芸術祭でコンセプトの一環として販売され、みんな離ればなれになってしまう。少し勿体ない気もしたが、これも作者が望んだ形。彼らもそれを楽しみにしているように見えた。親の愛情を一心に受けてここに展示されている彼らは、親の手を離れ誰かの元へ貰われていった時、きっとその人の心に寄り添ってあたたかい気持ちを届けるのだろう。
芸術祭でも是非彼らに会いに行こうと思いギャラリーを後にした。こっそり心に決めたお気に入りのあの子が、私の心にも寄り添ってくれることを願って。(堀越文佳)
既存のものの新たな使用方法の提案。
出展者それぞれにとっての「かわいい」を展示します。
T+review
そこには11の「かわいい」が存在していた。ふわふわとしていてとらえどころのない「かわいい」。対価を払って作り出された「かわいい」。一見グロテスクでありながらもどこか感じることのできる「かわいい」。ギャラリーの中で私は、これらの作品たちに「わたしたちはこれがかわいいと思うのだけれど、あなたはどう思う?」そう問われているように感じた。
そもそも「かわいい」とは何だろうか。日々のわたしたちの会話、コンビニに並ぶ雑誌、タレントの出演するテレビ番組、とりとめのない呟きが並ぶSNS・・・日常のあらゆる場面がこの言葉であふれている。しかしそれらが指す対象に一貫性はほとんど無い。飼っている子猫がかわいい、電車で見たおじさんの行動がかわいい、あれがかわいい、これがかわいいと人の数だけの「かわいい」がある。それはまるで自分の好みに合ったものにはとりあえず「かわいい」というラベルをべたべたと貼りつけているようにも思える。「かわいい」という言葉はひどく曖昧なものだ。
ギャラリーに展示された11の作品たち。その中には少し奇妙に感じるものや恐怖を感じ、素直に「かわいい」と感じることのできないものもある。しかしどれも制作者にとって、そしてそれを「かわいい」と感じた人にとって、その作品は間違いなく「かわいい」なのだ。
わたしたちが普段なにげなく使う「かわいい」という言葉。「かわいい展」は自分の中でその言葉と向き合うきっかけとなったように思う。(大藪早紀)
主に昨年制作した、彫刻作品の展示です。
T+review
彫刻作品には、事物の輪郭線や質量を厳しくとらえている作品も多いが、こういった作品を見たとき、私は作品自体に高い精神性を感じるというか、「我々人間とは決定的に異なる高潔な存在」という印象を受けることが多い。美しく決して手の届かない存在に、私は思わず畏敬の念を抱かされる。
対して、今回の展示作品「All I See」は、人がまとう雰囲気ごと人を表現したような、柔らかな彫り込みや色彩が印象的であった。ふんわりと柔らかそうでいて、しっかりと質量を持っている。人間と同じだ。私はギャラリーに入る前から「彼」の視線に思わず警戒心を抱いてしまっていたが、すこし安心して観察を始める。
しかし適度にデフォルメされた人間達には、我々生きている人間にはない違和感が存在し、じっと見つめているうちにどこか不安な気持ちになってくる。親しみ易い雰囲気に引き込まれ忘れてしまっていたが、私は彼もまた「我々人間とは決定的に異なる存在」だったということに気付く。気付いた瞬間、彼が何かとても恐ろしいもののように感じられる。私たち人間のような姿をしていて、しかし異なる得体のしれない存在。花に擬態するカマキリのように、私たちが親しみを感じて寄ってくるのを舌なめずりして待っているのかもしれない。そんなあらぬ想像を膨らませた私を彼はただ静かな目で見つめていた。
事物はそこに存在するのみで様々な情報を発信していて、人間はそこに意味や共感を見出そうとする。彼らは物を言わないから、投げかけた言葉は決して返ってくることはない。返ってくるとしたら、事物に投影した自分自身の言葉だろうか。自分自身の理解の範疇に無理やり他の物を入れようとすると、結局のところ自己投影に行き着く。彼らの視線に恐れを抱くのならば、自分のどこかに罰されるべき後ろめたい部分を持っているということになるのだろう。なるほど、彼はすべて知っている。彼はすなわち私自身なのだから。(山崎玲香)