「話し出す前は、少し静かになる。」周作 2016年7月4日~7月8日

「話し出す前は、少し静かになる。」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2016年7月4日(月)~7月8日(金)
出展者:周作(洋画MC1)

何から話そうか、なんて自分を隠す言い訳はもうやめにしよう。

経験が私達を作る。
経験は過去である。
過去は思い出になる。
思い出は美化され、肯定される。

では我々自身は、美化そして肯定されうる存在であるのか。

T+review

 アーティストは良い作品をつくることが全てだと思いがちだが、その作品を取り巻く空間をどのようにつくっていくかも同じ位重要である。今回の作者はそれが上手い。前回の個展でも作品を最大限魅せるための綿密な展示作業を行っていたと記憶しているが、今回は更に大胆でのびのびと空間を活かしている印象だ。カウンターの横には制作の参考にしたという本が並べられ、壁のドローイングは一面を覆いつくし、床にはテープで絵が描かれている。展示のコンセプトを綴ったプリントは数枚にも及び、作者のこれまでの人生さえも細かく記述されている。作品全体の印象としては過去にあったことを思いのまま描いているといった感じだが、この作品群はこの空間が無ければ作品として成り立ち難いだろうと感じた。
 よく現代アートと呼ばれるものはよく分からなくてつまらないという声を聞くが、それはそこの空間が作品を活かしきれていないのではないかと考える。作品に沿った空間作りがされている展示は、たとえよく分からなくてもそれはそれで楽しいものだ。それを考慮した時にこの展示は非常に見る人を楽しませるものになっていると感じた。
(堀越文佳)

話し出す前は、少し静かになる。


「洋画三年展」堀越文佳、他 2016年6月27日~7月1日

「洋画三年展」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2016年6月27日(月)~7月1日(金)
出展者:堀越文佳(洋画コース3年)
酒井光(洋画コース3年)
川路奈々世(洋画コース3年)
野村日向子(洋画コース3年)

美術専攻洋画コース三年有志による展示です。


T+review

 「洋画」というと西洋の古典絵画を思い起こしがちだ。「洋画」という言葉だけでは西洋の映画が邦画に対して使われているのか、西洋の様式で描かれた絵画か判断できない。映画と区別するため絵画の方を「西洋画」というくらいだ。西洋あっての絵画のようないわれだ。しかし私がみたものは本当に西洋画だろうか。各々の個性が弾け合い一見まとまりのないところが共通点のようだ。水に浮かぶ女の子、好みの男の子、じっとこちらを見つめる西洋風の男性・・・。各々が好きなように描いている。それは鑑賞者にも共感できる人物や風景だ。伝統が高尚なものと扱われ一般人の手から離れてしまえばそれは危うく、消えかけのロウソクのような命である。しかし彼女たちが再び手に取り現代への美術の在り方として提示することで、西洋画は現代へと命を吹き返す。新しいものが出来たら古いものが消えるのではない。新しいものが生まれることで、古典は再び返り咲き、その価値を示す。逆もまた然りである。未熟かもしれないがこれからの西洋画の可能性を感じた展示であった。(古屋花子)

洋画三年


「@odd」篠倉彩佳 2016年6月20日~6月24日

「@odd」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2016年6月20日(月)~6月24日(金)
出展者:篠倉彩佳(総合造形領域3年)

いきているここちがしないときがありませんか


T+review

 「神は死んだ。」と、ニーチェの言葉を思い出した。
 展示室に置かれた教室机と教壇は懐かしい空気を思い起こさせる。芳名帳として置かれた学習帳には来観者らの童心に帰った字で名前が記入されている。しかし、その前の教壇に座るのは不気味な雰囲気をかもしだす一体の人物像である。髪の毛はなく、目はどこかをじっと見つめている。決してこちらを見つめているわけではないのだが、何かに監視されるような恐怖感が漂ってくる。
 子どもの一日を支配するのは大半が学校生活であって、子どもの社会は教室という狭い空間に縛られている。学校は村社会であり、異端の排除、すなわちいじめによって社会からの追放が執行される。その学校生活を支配するのが教師であり、先生は神となりうるか と、コンセプトから問いかけられている。
 教壇に座るのは教師、すなわち神の象徴となっていると思われる。それは手の向きがイエス・キリストの祝福をあらわす形になっていることからだ。また、生徒の立ち位置である机の席に座ってみると像を見上げることになり、神としての崇高さを演出している。本来の教室のような雑多な雰囲気ではない、展示室の閑散とした空間にうまく緊張感を与えている。
 コンセプトには続きがある。世代交代と情報の加速化が確実に進んでいるなかで子どもたちは誰に教わるのか。教師は大人でなければならないのならば、大人とはいったい誰のことを指すのか。本当の大人になれるのだろうか。そのようなことがつづられている。
 確かに、頭が大きく髪の毛のない人物像は赤子のような雰囲気も感じさせる。そうとなれば、この像には「大人」と「子ども」の矛盾した二面性を内包していると考えられる。
教師である絶対的な「神」の存在が不確かなものであることを、この作品はあらわしているといえる。「神は死んだ」のだ。
 人類の歴史は速度を追い求めた歴史でもあった。今ではその速度は自らの存在をも追い越してしまっている。私たちはこれからどこへ向かえばよいのか、情報が、社会が敷いたレールの上を走ればよいのだろうか。現代が負っている問題を、教室という空間で演出し、 多面的な観点から考えさせる、巧みなインスタレーションであった。(濱田洋亮)

ポスター


「幻想展」加藤空、他 2016年6月13日~6月17日

展覧会「幻想展」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2016年6月13日(月)~2016年6月17日(金)
出展者:加藤空(日本画コース2年)
    高橋友里奈(日本画コース2年)

幻想が向ふから迫つてくるときは 
もうにんげんの壊れるときだ
(宮沢賢治、「春と修羅」より)


T+review

「幻想が向ふから迫つてくるときはもうにんげんの壊れるときだ」
宮沢賢治の「春と修羅」より。

 「幻想」それはたしかに人間が想うものだが、幻の想いである。目には見えない、しかし確かにあったことを何が証明できようか。言葉、そしてそれから絵だ。小説の一節とそこから想起されるイメージを描いた展示。空想が言葉になり、言葉が絵になり、絵がイメージとして人々に訴えかける。イメージはより具体化していくのに対し、小説が作り話だとしたらそれを描いた絵はさらに幻想の度合いを高めていることが面白い。人は目には見えないものを追いかける性分があるのと同時に、芸術家にはそれを視覚化したい思いもある。終わらないからである。目に見えるようになっても、私たちはまたそこから何かしらのイメージを受け取る。そしてまた空想にふける。そうすると芸術は人間の幻想を促す一部でしかないのかもしれない。吐き出そうとしているはずなのに、吐き出したものから飲み込んでまた私たちは幻想の世界にはまってしまう。
 「幻想が向ふから迫つてくるときはもうにんげんの壊れるときだ」
迫り来るイメージに圧倒されながら、頭の隅でその言葉がぼんやり響いた。(古屋花子)

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自主企画展「白」 2016年6月6日~6月10日

T+自主企画展「白」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2016年6月6日(月)~6月10日(金)

この企画展は、昨年改修されたT+ギャラリーをもっと身近に感じてほしいと考え企画した公募展です。
今回は学群二年生から院生まで様々な専攻の十一名に、平面・立体の垣根を超えて「白」をテーマとした作品を提出していただきました。
白には「あらゆる光を反射する時の色」「はっきりしている」「混じりけのない」「何も書いていない」等、様々な意味合いがあり、その捉え方には作者の個性が色濃く表れます。
また、白い壁はT+ギャラリーの特徴でもあり、新しくなったギャラリーで行う初めての企画展に相応しいテーマとしてこの言葉を設定いたしました。
ぜひ空間と作品との対比も併せてお楽しみください。

T+白ポスター