「山の上の幽霊」 上野郁代 2011年5月23日~2011年5月27日
会場:アートギャラリーT+
会期:2011年5月23日~2011年5月27日
出展者:上野郁代(洋画3年)
平面作品
平面作品
茨城県陶芸美術館にて、展覧会「筑波大学所蔵 石井コレクション 東洋陶磁の華」が開催されています。
会場:茨城県笠間市笠間2345番地(笠間芸術の森公園内) 茨城県陶芸美術館
会期:2011年4月28日~2011年6月19日(9:30~17:00※入場は16:30まで)※休館日=月曜日
料金:一般700[550]円/高大生500[400]円/小中生250[200]円 ※[ ]内は20名以上の団体料金
茨城県陶芸美術館:http://www.tougei.museum.ibk.ed.jp/
写真展示
T+review
白い壁に、9枚の写真が掛けてある。遠くから見ると全て真黒で、何のことやら分からない。そんな訳はない、写真なのだから、何か写っているはずだと、吸い込まれる様に近づいていって、一枚一枚じっと見ると、白っぽい煙みたいなのや、何か分からない、言い様のないものが、写っているのか、写っていないのかといった微妙さで、しかし、確かにあるのである。ここまで思いついたとき、わたしは思わずどきりとした。目の前にある9つの写真は、9つの空間ではないだろうか。
黒という色には、思いがけない奥行きがある。夜になって目を瞑ると、わたしの眠っている部屋の天井や壁といったものは、もはやなくなってしまって、ただ深い暗闇が、どこまでも続いている様に感じられる。そういう感覚が、これらの写真にはある。白い壁に掛かっている9つの写真は、その果てしない空間に一体何を孕んでいるのやら、考えるのもおそろしい。何があってもおかしくない、無秩序な、無気味な奥行きをもった空間である。茫茫たる空間の奥底から、ぼんやりと現れるものは何であろう。そうして、この空間の正体は。
展覧会名である「ノート」、noteという単語には、メモ、記録という意味がある。これら9枚の写真は、一体何の記録なのか。それはおそらく、作者の深い心の様子であろう。はっきりした心象となる以前の、意識することさえない様な、混沌の記録。もしそうであるのなら、そこに写っているものが、一体何なのかということは意味がない。それは誰にも分からない。あざやかな心象の、もっと深いところで、もやもやと、ゆらゆらと、ちらちらとしている、何だか分からないものを、一瞬の光が捕らえる。記録という冷静な態度で、自分の心の奥底を覗くまなざしが心強い。
などといろいろ思ってみても、果てしない黒色の空間は、やっぱりわたしには不安である。こうして見つめたまま、二度と目を離せない様な感じがする。本作品を見るのと同じ様な感覚を、他でも味わう様な気がすると思ったが、それは、ひとの目ではなかったか。わたしは9枚の写真を見ているつもりが、いつのまにか、作者の眸を覗いている気がした。(金沢みなみ)
家具を溶かしました。
T+review
まだ五月だというのに昨年の夏の暑さを予感させるような気候がムワリと身体に纏わりつくような日。度の合わない眼鏡と溶け出した家具。人を気だるい気持ちにさせるには最高の組み合わせだ。
ぼやけた風景の中で、わたしの目前にある赤い時計と赤い椅子は、溶けていたのだ。本当に。夢じゃなくて。妄想じゃなくって。
「混乱」の一言では片付けられない人智の及ばぬ出来事が次々に起きて、日々ふつうと思ってきた何もかもが、ジェンガが崩れる時みたいに呆気無く壊される。アッと呟いて立ち尽くす間に、むしろ事後の目前の物事のほうが本物のふつうなのでは?なんて観念して錯覚してしまうくらい鮮やかに。私たちの生きる地球上では、願ってもいないのに、そういうことが時々起こる。今日の光景も、きっとその種の事変に違いない。
モンドリアンのコンポジションのような色合いをしたテレビや鉢植えやテーブルやその上の灰皿もしゅわしゅわと溶け出していた。溶け出す世界を見つめながら、人は何を思うのだろう。溶けちゃったから新しいのを買っちゃおうとか。誰かに要らなくなったものをもらおうかなとか。でも、悪くないかも?これが日常でも。やっぱり無理かも!毎日この調度品に囲まれて生活するのは。とか。
そうやって私たちは毎日多かれ少なかれ、小さな選択をして生きている。小さな選択が紡がれて生活は繰り広げられ、世界は作られているのかもしれない。だから、ある部分に支障があると、続く部分もすべて途絶えてしまう。そういうことが急に起きた時のために、普段から、様々な状況やストーリーを想像して、イザというときのために備えておくのは大事なことかもしれない。想像され得る変動の一つを、彼女は忠実に再現してくれたのだ。(辻真理子)
振り回されてしまうこと についての展示。