「うまれる」丹治遥 2015年7月13日〜7月17日

展覧会「うまれる」が開催されます。
会場:アートギャラリーT+
会期:2015年7月13日(月)~2015年7月17日(金)
出展者:丹治遥(総合造形領域4年)

日々考えていること、感じていること。

T+review

写真に収められているモチーフは、たくさん浮かんだシャボン玉や、花から飛び立とうとしている小さな虫や、道端に落ちているゴミ、列になって伸びている飛行機雲など、一見するとなんの共通性のないものである。しかし、展示冒頭に「次の瞬間には 無くなっている」という言葉が掲示されていたので、鑑賞者は安心してその言葉をもとに作品から共通項を見出しながら見ていくことができたのではないだろうか。
作者が表現しようとしたものはおそらく「無常さ」だろう。シャボンはすぐにわれてしまうし、小さな虫は目をそらせばすぐにどこかへ飛び去ってしまうし、道のごみも風に飛ばされたり雨に流されたりしてどこかへ消えてしまう。普段なら見つけても気にもとめない日常の場面の中に潜む無常的なものを、写真という形で提示したのだと思われる。どの写真もモチーフが小さめだったり画面の中央からずらしてあったりする構図が多く、写真単体のもつ迫力がやや弱めであるのも、このテーマを意識したからかもしれない。またこの展示では写真の配置の仕方も特徴的であった。ギャラリー内には多くの写真が飾られていたが、大小様々で、並べられ方も縦横できれいにそろえたりすることはなく不規則にちらしてあった。それにより、堅苦しさがなく開放的で、何気ない風景を自然に見せているように感じられた。
この展示では展覧会名について二点気になったところがあった。写真にとられているものが消える予感のするものか、消えようとしているものか、すでに消えてしまっているものが多く、「うまれる」という言葉を連想させるものが無いように感じたということと、なぜ「生まれる」でも「産まれる」でもなくひらがなで「うまれる」であるのかということである。いったい何がうまれたのだろうか。ひらがなにしたのにはどのような意図があるのだろうか。漢字で書けるものをあえてひらがなで表記している作品などは時々見かけるが、おそらくそれぞれ自分の表現したいものに照らし合わせて考えを練っているのだろう。
蛇足かもしれないが、参考までに谷川俊太郎の「世代」という詩の一部を書いておく。

漢字はだまっている/カタカナはだまっていない/カタカナは幼く明るく叫びをあげる/アカサタナハマヤラワ
漢字はだまっている/ひらがなはだまっていない/ひらがなはしとやかに囁きかける/
いろはにほへとちりぬるを(市川太也)

umareru