湯島聖堂孔子胡坐像の彩色復元

研究担当者 程塚敏明(筑波大学芸術系准教授)

関東大震災により失われた造像当初の孔子像は、各資料や研究により彩色されていたことが分かっている。今回の彩色復元は、湯島聖大成殿に安置されている柴田良貴制作の金銅製「孔子胡坐像」の原型より造られた乾漆像に、造像当初を想定した彩色を、日本画の材料・技法を用いて試みたものである。

彩色については、渡辺小華(1835-1887)筆「孔子像」を主要な参考資料とし、実験調査を行った。調査での情報をもとに想定復元意匠図を作成、さらに使用する絵具を検討しながら日本画による彩色想定復元図を製作した。それをもとにCGによる孔子像が再現(研究分担者:木村浩(筑波大学芸術系准教授)され、彩色された孔子像の画像イメージを把握した。

湯島聖堂孔子胡坐像及び四配像のブロンズによる復元

研究担当者 柴田良貴(筑波大学芸術系教授)

草創期の湯島聖堂に置かれた孔子像および四配像は、寛永九年(一六三二)に尾張藩主徳川義直によって上野忍岡の林羅山の私邸内にあった先聖殿(孔子廟)に寄進されたもので、七条仏所第二十三代康音の作とされる。この孔子像・四配像は、江戸期の幾多の火災を乗り越え、近代に至るまで礼拝空間の中核を成してきたが、大正十二年(一九二三)の関東大震災により焼失してしまった。今回、諸資料を繋ぎ合わせることで、往時の像容を考察することにより諸像を復元し、江戸前期に創建された当時の礼拝空間を現代に再現することを試みた。

粘土での原型制作から石膏型取りを経て、石膏像になった作品に石膏の直付けを繰り返した。最終素材は黒谷美術株式会社(富山県射水市)の協力によってブロンズとし、平成十九年に大成殿に安置した。

湯島聖堂孔子坐像(原型)乾漆転換の過程

研究担当者 柴田良貴(筑波大学芸術系教授)

この制作はあくまで実験的なものであった。前研究において、大成殿に安置された孔子像及び四配像は、ブロンズ像として専門業者に発注していた。この工程の中で、シリコンゴムによる雌型が蝋型鋳造(1)のために製作されており、この型を譲り受けた。その型の内部に漆を塗り込み、さらに補強を重ね、孔子袞冕倚像製作の前段階として、 脱活乾漆(2)を用いて復元している。

(1)シリコン型や石膏割型を用いて原型を蝋に置換し、これを基に鋳型を作成した後、窯等で燃焼させ、蝋を焼失させる。これによって出来た隙間を利用して金属へと転換する鋳造の技法を蝋型鋳造という。
(2)脱活乾漆像とは、奈良時代に隆盛した造仏技法。布を漆で塗り固めたものを構造の主体とし、木屎漆や錆漆によって成形する。現在は石膏型を用い、錆漆で麻布を貼り込む方法が主流となっている。

乾漆による孔子袞冕倚像の復元制作

研究担当者 柴田良貴(筑波大学芸術系教授)

江戸前期から中期に至る、我が国に残存する孔子の画軸、そして閑谷学校大成殿のブロンズ製孔子倚像をその原型として捉え、自身の造形観及び筑波大学の彫塑教育の造形指針を尊重し、現在の日本において復元可能な等身の脱活乾漆像を、平成の今に再現するという考えのもと研究に着手した。完成に至る経過は左記の通りである。

袞冕像について
研究担当者 守屋正彦(筑波大学芸術系教授 美術史担当)


作業工程

孔子はその姿から、行教像、司寇像、袞冕像に分けられる。それは孔子の地位が、時代と歴代皇帝の尊崇の程度によって変化し、時に応じて位階が昇格したためであった。行教は字のごとく孔子が教えを広める姿で、古くは呉道玄(呉道士)による画像がその典型であり、この姿を基準に孔子像が表現されるようになった。道玄は玄宗皇帝の時代の人で、孔子が亡くなって千年以上の隔たりがある。晩唐の時期に朱景玄が著した『唐朝名画録』では、彼を唯一「神品上」として第一位の優れた画家に挙げている。次第に歴代皇帝の尊崇を受けて孔子の評価が高くなり、彼が魯の大司寇(司法の長官)であった時の「司寇冠」の姿で表すようになった。湯島聖堂大成殿の孔子像は司寇冠による肖像である。孔子の地位が上がるのは、おそらく玄宗皇帝による封号「文宣王」のあたりからで、その後、「大至聖文宣王」(元)、「至聖先師孔子」(明)、「大成至聖文宣王孔子」(清)などが贈られ、故郷である曲阜の孔子廟は歴代皇帝によって、大きな城郭のような景観となっていったのである。

袞冕像は皇帝の姿で表現される。袞は「袞服」を指し、皇帝が着る礼服をいう。また冕は皇帝の冠で、冕板を載せ、前後に旒を垂らし、相貌が直に窺えないような肖像に表される。孔子は皇帝に次ぐ位に昇進するに及んで、袞冕像として表現されるようになっていった。特に袞服には皇帝を象徴する十二章の意匠が文様として描き込まれており、我が国の「孔子像」表現にも影響している。

乾漆像「孔子袞冕倚像」への彩色

彩色責任者 程塚敏明(筑波大学芸術系准教授)
造像銘揮毫 菅野智明(筑波大学芸術系教授)
彩色監修  藤田志朗(筑波大学芸術系教授)

彩色責任者である程塚は本制作に先立ち、乾漆製の孔子坐像への彩色を行っている。これは同じく柴田良貴作の湯島聖堂大成殿に安置されている金銅製本尊「孔子胡坐像」の原型から制作された乾漆像に、関東大震災により失われた当初の孔子像の彩色を想定復元するものであった。それに対し本制作は、我が国に見られる倚像並びに孔子像の調査研究を基盤とする復元制作「孔子袞冕倚像」に対して行われた。像の製作者の意図を踏まえ、造形作品としての意匠性や色彩の調和なども鑑みながら、芸術的表現を目指して制作を進めたことを、はじめに強調しておきたい。

彩色における指標を定めるために、彫刻と彩色の両制作者を交え、その方向性について検討を行った。その結果、乾漆像の威厳ある重厚な表現から、畏怖すべき対象としての存在感を目指すこととした。孔子の顔や手に表現された漆特有の黒い色味や質感を残しながら、全体的に経年変化を帯びたような古色風の彩色で進めていくことを確認した。

湯島聖堂大成殿内陣空間の再現色

研究担当者 木村浩(筑波大学芸術系准教授)
CG 補助 呉宗岳(大学院修士課程2005 年次生)
CG 建築 日高秀穂(大学院修士課程2007 年次生)

元禄4年(1691)に落成した湯島聖堂大成殿の形や内部の状況については、寛政期に書かれた『昌平志』に詳しい記述がある。それによると、草創期の大成殿は、現在の形状とは異なっており、上から見ると凸の字を逆さにしたような構造をしていた。その中央部分の奥まったところに、「神座」と呼ばれる小室が設けられ、ここに孔子像等の諸聖像が安置された。また左右(東西)の壁面には、狩野益信によって制作された十六枚の《賢儒図像》の扁額が飾られた。さらに釈奠の際には、狩野山雪筆《歴聖大儒像》のうち、朱子をはじめとする宋代の儒者の画像六幅が掛けられ、荘厳な礼拝空間が形成されていた。