「儒教美術史」の構築

本課題は、東アジアに共通する倫理観の形成に、美術がどのように作用したのかを解明するものである。具体的には、儒教に由来する美術を対象に、その成立地(中国)と波及地(日本など)での様式的変容について、「時代・地域・国家統制」の三視点を中心に、その全体像を追究する。加えて、これまでの儒教に関する美術主題の事例研究の成果を発展的に統合し、本課題の成果を資源化することで、新たな「儒教美術史」という領域を構築する。
 紀元前6世紀に成立した儒教は、周辺地域に波及していった。各地の孔子廟に祀られた美術は、人々に共通する視覚イメージを生み出し、やがて統一的な概念の成立へと作用した。そのため、人々の倫理観形成に寄与した所産として、儒教美術を素材に東アジア文化圏の構造を学術的に解釈できる。


湯島聖堂の復元研究

湯島聖堂は、元禄3年(1690)7月に徳川綱吉の発意により造営された儒学の学問所である。その前身は林羅山の私邸内にあった先聖殿(孔子廟)で、これは寛永9年(1632)、尾張初代藩主・徳川義直より援助を受けて創建されたものであった。湯島聖堂大成殿の祭壇上には義直が寄進した孔子像ならびに四配(思子、顔子、曽子、孟子)が安置され、背後の壁面に「歴聖大儒像」6幅、左右両壁には「賢儒図像扁額」16面が掛けられていた、と記録されている。これらのうち、「歴聖大儒像」6幅と「賢儒図像扁額」の下絵14面が筑波大学に継承、保管されている。

元禄16年(1703)に最初の焼失があり、その後も二度の大火に見舞われ、再建後の規模は当主・儒学の初に比して縮小していった。しかし、18世紀末から始まった寛政の改革により、湯島聖堂と学問所であ敷地内にあった学舎が幕府の直轄の「昌平坂学問所」となると、大成殿もそれにふさわしいものとなるべく、寛政11年(1799)に大きく拡張して建て直された。なお、このときにモデルとなったのは、明の儒学者で日本に亡命した朱舜水が、水戸藩主徳川光圀のために制作した孔子廟の模型であった。

維新後、文部省の設置によって幕府学問所としての機能を終えるが、建物自体が大きく損なわれることはなかった。明治5年(1872)には東京師範学校、さらに7年(1874)には東京女子師範学校が設置され、両校は現在の筑波大学・お茶の水女子大学へと発展していく。明治40年(1907)には孔子祭典会によって、近代に入ってから最初の釈奠が開催されるにいたった。ところが大正12年(1923)、東京を襲った関東大震災によって大成殿は焼失、このとき元禄以来の本尊であった孔子像及び四配像も永久に失われてしまった。

平成12年(2000)、 筑波大学附属図書館において狩野探幽筆「猿曳図」「野外奏楽図」屏風・六曲一双、狩野尚信筆「李白観瀑図」「剡渓訪戴図」屏風・六曲一双、並びに田村直翁筆「架鷹図」屏風・六曲一双が新たに発見され、これを記念して『筑波大学附属図書館所蔵日本美術の名品―石山寺一切経、狩野探幽・尚信の進出屏風絵と歴聖大儒像』の展覧会を開催した。新出の狩野派の絵画の展観によって、江戸前期の儒教文化とのかかわりが見いだされ、附属図書館所蔵の「賢聖障子図」として目録にあった下絵資料が調査の結果、聖堂大成殿内陣壁画「賢儒図像」の扁額模写であると判明した。

これらを契機に研究助成を得て、新出資料の調査研究ならびに復元研究が開始された。湯島聖堂大成殿内陣の失われた孔子像、並びに四配像と殿内周囲を飾った扁額16面の復元制作を進め、平成17(2005)に附属図書館において『江戸前期の湯島聖堂 筑波大学史料による研究成果の公開』展、平成19(2007)には湯島聖堂・斯文会の主催で、特別展『孔子祭復活百年記念事業 草創期の湯島聖堂―よみがえる江戸の学習空間』を開催し、これらを経て孔子像並びに四配像と、内陣壁画賢儒図像扁額16面が聖堂大成殿に奉安されたのである。本研究はその後も継続し、湯島聖堂の絵画資料の悉皆調査を筑波大学日本美術史研究室で進め、関東大震災で焼失した本尊孔子像については、渡邉崋山の二男小華が描いた本尊孔子像を彩色した画軸を見出し、これに基づいて江戸時代の孔子像の彩色復元が行われた。

  • 渡邉小華筆《孔子像》部分 斯文会蔵
  • 現在の湯島聖堂大成殿