Story
2013 年9月。東日本大震災から2年と半年が経ち、いわき市の街角では、あちこちに設置されたモニタリングポストが放射線量を表示しています。地元のラジオは毎日定時に測定結果を知らせます。


市内では対話集会である「未来会議in いわき」が開かれていました。参加者は様々な年齢層からおよそ60名。今回の話題は“ 震災から2年半、今、思うこと・感じること”。3 ~4人ごとにテーブルに分かれて、震災当時の記憶から対話が始まります。

「立っていられなかった。」「食料のことが気がかりだった。」「家は壊れなかったが、原発が心配でいわきを脱出した。」




「震災後半年くらいの期間の記憶の順序があいまい。」菩提院の副住職で、三児の父親でもある霜村真康さんは語ります。

「放射能汚染の問題からはどうしても逃げられない。だとしたら自分達の子供たちの将来にとって少しでも良いことをしておきたい。」



未来会議ではまるで自己紹介するかのように、それぞれの体験が語られています。

「大学で出身を聞かれて福島だと答えると、たいてい『大丈夫?』と聞かれて複雑な気持ちになる。」

「自分が住む地域は放射線量も低く、被災者であるという意識は薄い。」「考えが偏らないよう、人の意見を聞いて自分の気持ちをニュートラルに保っていたい。」

市内の高校に通う瀬戸葵さんは、同じ高校生の仲間と一緒に、旅行代理店と連携していわき市に観光客を呼び込むCMを作成しました。

「私はこの震災の経験を伝える側なんだと思えたことが、行動に繋がりました。」



現在の状況についてどう捉えるのかが話題になっているテーブルもあります。

「嫌だ嫌だというばかりでなく、前向きな声を挙げられる時期になったんじゃない?」「今は世の中が変わるターニングポイントだと思っている。大変たいへんと言ってる連中の向こう側には笑ってる奴がいるというのが真実。」「ピンチをチャンスにすることをどれだけ実践できるかということ」

「みんな腹をくくった上で、これからの日々をどうしていこうかと考えながら生活していくんだと思う。」サーフショップを経営する小林祐一朗さんは、震災直後から津波によるがれきを撤去し、海の状況を見守ってきました。自ら水質の検査を行っていますが、原発から海へ流れ出す汚染水のことが気がかりです。

「サーフィンの魅力に取り憑かれた人は、 県外に行っても地元にいても、海があって波があれば波乗りするんじゃないかな。」


サーフィン仲間の中村靖治さんは報道カメラマンです。震災発生直後の写真を浜辺で見せてくれました。

「浜辺の街が燃えている様子は空襲の後のようで、本当に恐ろしかったのを覚えています。」



未来会議では席替えをしながら対話が進められます。自分が参加した対話の内容を新たに同じテーブルについた参加者に伝えることで、席が替わるたびに対話の内容が深まると同時に共有が図られるのだといいます。

「震災以前に比べると本音で話せるようになったことは大きな変化だ。」「震災で本来の人と人との関わりが見えた。」「震災後にはいろいろな恩恵を受けた。不安なことはあるけど、けっこう幸せに思える。」

「震災があったからこそというものを見つけたい。」と語るのは松本丈さん。いわきを盛り上げるとの気概がある店が軒を連ねる飲食店街・夜明け市場の仕掛け人です。

「何かやりたいことがあったら、やれる時にやろうと思えるようになった。一生懸命生きようと思える。」



夜明け市場にあるスタンドバーももには、80歳を超えてもカウンターに立つ会川桃子さんがいました。震災で亡くなった常連さんもいるのだと話します。

「震災の話を、今やっと、ゆっくり喋れるようになったの。まだまだ、みんな必死だよ。まだ2年だもの。」

過去のいわきの街のにぎわいが未来会議で話題になっています。かつて石炭の算出は街の基幹産業でした。「デパートが市内に三つもあって。炭鉱も、漁業もすごかった。」

「入社当時は産業転換のまっただ中でした。」野木和夫さんが常磐炭礦に入社した昭和41年、リゾート施設がオープンしました。会社は炭鉱業から観光業へと、業態をシフトさせていったのです。

「昔から常磐地区は首都圏へのエネルギー供給基地なんだよね。昔は石炭、今は原子力。」


「毎日ものすごい人の数だった。」 現在に至るまで、フラダンスショーは花形であり続けています。初代フラガールの皆さんが映画の題材にもなったオープン当時を回想します。

「炭鉱の娘さんを採用しましょうというのが社長の方針でした。炭鉱の閉鎖が決まって、バンドマンも炭鉱の人。雇用対策でもあったのよね。」




震災の年から開催されている「フラガールズ甲子園」では、全国から高校生フラガールズがいわきに集結して競います。







原発事故に立ち向かおうとスローガンを掲げた看板を見かけました。駅前の広場では原発政策に異議を唱える集会が開かれていました。





未来会議では、原発事故に関連する問題についての様々な態度が見受けられます。
「原発でまた事故があるのではないかと怖い」「こんな状況で再稼働は何故?」「まだ終わってない問題だ」「実生活では測量計はほとんど気にしてない。」「放射線問題については、はっきりした答えを求めようがない。」「事故が起きるまで何も考えなかった自分に負い目すら感じる。」


「収穫した農作物の放射線量が基準を下回っていれば出荷はするが、自分達では食べない生産者がいるんですよね。」 と語る丸山穣さんは、市内で果実栽培を手がける農家です。

「農作物に出荷制限がかかる時には、伝える方の声も大きいし、拾う方も懸命に聞く。けれども、それが解除になったことは予想以上に伝わらない。」


「市内で出荷停止の報道があると、うちのことじゃないと必死に訴えても注文の多くがキャンセルになった。」

加茂直雅さんが栽培するなめこは、販売店から質が高いと賞賛されていますが、事故の影響から抜け出せないでいます。 「未だに市場単価は震災前の2分の1 か、それ以下のままです。」


漁業もまた、いわきの主要な産業のひとつです。原発事故以降、操業停止が続きます。久之浜港では漁師の皆さんが試験操業に向けて船の手入れをしていました。「オリンピックを誘致するのに、『東京は福島から200km 離れている』とアピールしている。それでは福島を見捨てるということ。」

「漁をして食べてくれる人がいれば良いが…」そして取材にあたっていた学生に問いかけます。「どうする?おたくら食ってくれる?」

鮮魚店には買い物客の姿が見当たりません。「福島県の魚は一匹も売っていないし品物は厳選しているが、それでも客が来ない。」

「どうして欲しいってことはない。どうやっていったらいいのかを日々考えてやっているだけ。」





市内各所では近日投票となる市長選挙に向けて選挙活動が繰り広げられていました。






未来会議には子供の姿も見られます。

「地震と放射能とどっちが怖い?」「うーん、津波!」「放射能あんまり怖くない。今あんまり多くないんでしょ?」




その脇で、大人たちのテーブルではいわきで子育てすることの困難さが話題に上ります。

「子供に『なんでこんな時に産んだの』と言われて…」「親の中にも、多少危険でも屋外で運動させたいという親と、絶対に嫌ですという親とが混在している。」「市内には450 以上の公園があるのに、そのうち11 箇所しか除染が実施されていない。」


「気をつけて生活すればきっと大丈夫と思って、避難先から帰ってきました。」小学生の娘さんを持つ吉田さんはポジティブに日々を過ごそうと考えていましたが、対話を通して自分が不安も抱えていることに改めて気付かされたといいます。

「家では除染していない樹にのぼったりしていますが、体を動かすことやストレスフリーであるのはいいことだと思う。」

「被爆の影響なのかどうかまだわからないけれど、私にも子供にも甲状腺にのう胞が見つかっている。」弁護士の菅波さんは5人のお子さんの母親です。放射線をできるだけ避けたいと考えていますが、気になっていることがあります。

「放射線を気にして行動する人がいれば、それを見たくない人や放射線の話しをしたくない人もいる。どちらにも自由の権利がある。」

保育園の理事長である小野正子さんは、原発事故後に園庭の土の入れ替えをするなど、放射能がおよぼす子供への影響をできるだけ避けるよう努めたと言います。

「事故後2週間の時点で保育園の再開を決めたのは、いわきを動けない人たちがいるから。その現実を私たちは受け止めなくてはならない。」



会議の進行役を務めるファシリテーターが参加者に問いかけます。

「さまざまなことが話題にのぼっています。対話した後で、これから未来に向かってどんなことを思い描いていきますか?」




「子供たちのケアは確かに必要だが、大人のことも考えないと。」震災当時、海岸にほど近い中学校に勤務していた小野覚久さんは、生徒たちと避難した高台で、集落を津波が襲う様子を目撃しました。

「子供たちは自分自身のことよりも、親が苦しんでいる状況について心を痛めているように見受けられる。」


「地震が起きたら、とにかく皆さんに情報をお伝えすることが染み付いていました。」

地震発生をアナウンスしたFMいわきの坂本美知子さんは震災発生直後から、ラジオを通して多くの情報を提供してきました。 「時間が経つにつれて損傷の著しい身元不明のご遺体もあり、一般の番組の中でどのように表現して伝えるべきなのだろうとの葛藤がありました。」


「俺たちの時代に起こったことは俺たちがなんとかする。子供たちの時代じゃなくてよかった。」釣り船業を営む石井宏和さんは、津波で愛娘と実父を亡くしてしまいました。

「舟を守ることはできたけれど、そのせいで家族を犠牲にしてしまったという気持ちがどこかにある。だから今、この舟を守った意味を探している。」


未来会議は対話を終え、収穫の時間になります。参加者がそれぞれにまとめた一言が色とりどりの付箋紙に書かれ、壁に貼り出されます。

“ 壁の扱い方・捉え方”と書いたのは大学生の参加者です。いわきにはいくつもの壁が存在するとした上で、その最たるものは他の町からいわき市に避難している人といわき市民の間にある壁だと指摘しました。




市内の泉地区には富岡町から避難してきた人たちが暮らす200戸規模の応急仮設住宅があります。






「料理をするのが好き」と話す佐藤静江さんは仮設住宅に独り暮らし。亡き夫と生活した町に、望郷の気持ちを抑えられません。

「苦労して建てた家だから、思い出すよ。帰りたいし、自分の家で死にたい。だけどアタシはもう歳だから。何年も生きられないもの。」

住民ボランティアのリーダー的存在である西原さん夫妻。夫の清士さんは原発の関連会社に勤務していました。妻の千賀子さんはひどい事故だったとしながら、甘受してきた部分もあるのだから東電ばかりを悪者あつかいするべきではないと考えています。

「失ったものを惜しむのはそろそろ終わりにする時期。残されたものや新しく手に入ったものを数えれば、明日に繋がると思うのね。」そう話した後で、千賀子さんは富岡町民歌を唄って聞かせてくれました。

「一人ひとりの体験が、それぞれの物語として後世に伝わればいいなと思います。」未来会議の発起人の一人でもある藤城光さんは、震災の体験を聞き取って編纂する活動を続けています。震災からひと月経つ頃に発案し、賛同者を得ながら続けてきました。

「世代の移り変わりを意識して、未来会議も聞き取りの活動も、30年くらい続けていきたい。」



2014 年1 月。冬の装いの人々が菩提院に集って、「未来会議in いわき2014」が始まっています。

見覚えのある顔に混じって新しい顔ぶれもあります。いわきでは、未来へ向けた次の対話が始まっているようです。
いわきノート
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