『陶芸の現在的造形展に寄せて~』 (1998、冨田 康子 横須賀美術館学芸員)

陶片からなるパーツを複数、組み合わせ、それを鉄などの異素材でつなぎ止めて大型化していく仕事は今日、取り立ててめずらしものではない。
しかしそれでも、齋藤敏寿の仕事はやはり、特異であるといわねばなるまい。
その理由はまず、作品全体の大きさに対して構成される陶片が小さく、したがってまた、大量であること。
そしてもう一つは、陶片をつなぎ止めている鉄骨部分が、単なるジョイントの域を超え、作品の構成要素としての存在感を明確に示していることだ。また、おびただしい数の陶片を連結させ、巨大な構造を立ち上げることの帰結として、作品が有機的ともいいうる増殖のイメージをはらんでいる点も齋藤敏寿の特異性を補強している。
齋藤は、このような鉄骨と陶板との組み合わせによる作品を、80年代後半から発表しはじめる。そして93年頃から、「連結→拡大」という手法を自らの制作手法として自覚的に採用し、鉄と陶の二つの要素からなる大型の構造体に取り組むようになる。その中で、陶の部分、鉄骨部分、そのどちらを先につくって、後からパーツとどう接続していくかという制作手順は、幾度か変更され、検討を加えられながら、現在に至っている。
出品作品は、およそ60のそり返った陶板を鉄の構造体によって支え、高く立ち上げたもの。陶のみならず、鉄の構造もまた、溶接でつなぎ合わされる以前は短い棒状の小さなパーツであったことがわかる。陶板の凹面には、土がやわらかいときに指でつけられたテクスチャーが無数に残り、作品に密度を与えている。
注目しておきたいのは、これらのパーツの組み合わせにおいて、凹凸がきわめてランダムに配置されていることである。たとえば、陶板の指跡はつねに凹面にのみみられるものの、釉薬がかけられているのは、必ずしも凹面とは限らない。鉄骨によって支えられ鉄骨と接しているのも、ときに凹面でありときに凸面である。
明らかに凹凸のある、そり返った形状を持ちながらも、各々の陶板の凹凸の意味は、決して一定していない。
ときに凸面が表面になり、またときに凹面が表面になるという、この作品細部における表裏の反転性は、おのずと作品全体の形状をも規定する。裏もなく表もないがゆえに、互いに排他し合うような内部と外部の区別を持ちえない形状。それは、量塊とも器とも異なる、奇妙に開かれたかたちである。
陶の部分だけでも、おそらく300kgを超えるかに思われるこの作品が、しかし、それほどの重さを感じさせないのは、多分にこの開かれた形状によるところが大きいと思われる。また、集積された作家の手の痕跡は、この作品の持つどこか蠢くようなあやしげな雰囲気とも、深く関わっているはずだ。そして、こうした特徴が受け手の視線に、ある種の動揺を与えていくのだ。
視覚に対して与えられる陶芸的快楽の一方の極に、たとえば、硬質で均一な表面を持った磁器の静寂があるとすれば、齋藤の作品は、その対極の陶芸的快楽を体現したものといえるだろう。それは、明確な同一性を持たずに、ざわめきながら破綻する、その寸前の蠢きの形状ともいうべきものである。そのあやうさを肯定的に感受するデリカシーこそが、齋藤の作品世界を根幹で支える要因の一つであるように思われる。

1998年8月 リアスア-ク美術館 現代陶芸の現在性展図録