『フォルムの連携と力動』 齋藤敏寿論 (1995、金子賢治 茨城県陶芸美術館 館長)

齋藤敏寿の作品は不定形の陶板を基本にそれを数多く組み上げて作り出される。全体のフォルムの大まかな構想から割り出された陶板を作ることが制作の第一歩である。しかしそれはあらかじめ想定された総体のフォルムを部分に分割して作り、あとで再び元の想定通りにつなげるというような造形とは本質的に違う。

「…..自分の作りたいもののイメージがあって、ただ土をそれに転化させて表面上の見た目の形を作るのではなく土をどうしてこうやっていったらこうなるのかという、作っているそのもののイメージみたいなものの出方ですね」1.

これは個々の陶板にも、また一つの作品総体のフォルムについてもいえることだ。つまり、まず第一の陶板を、土の固まりを、一種の型のような役割りを持つ布や新聞紙などの上にのせ、そこに様々なテクスチャーと表情を刻印しながら作る。そのフォルムは、おおまかな形は想定しつつも、イメージと手と土による「作っているそのもの」との交感によって変容していき、極端な言い方をすれば、出来上がった時が最終的に形が決まる時でもある。この「作っているそのもののイメージ」は隣り合う第2の陶板に引き継がれる。というより乗り移っていく。 これが次々と繰り返されて最後の陶板に至るのである。

「….そうして作った形っていうのはもうそこにしか有り得ないんです。・・・確かにパーツにはなっているんだけど、全体になったときに、それはそこに必然的になきゃいけない形だし、粘土で作っているときでも、全体のイメージの中のその場所にしかない形を作ってるんです。」

個々の陶板、それらは、形にしろ、一つの作品全体の中の空間的な位置にしろ、他に取換えのきかない全くの一回性の原則に貫かれている。隣り合う一つ一つが順に並置と縦起の必然性によってつながれているのである。したがってそういう陶板で出来上がる作品の総体のフォルムは、極端な言い方をすれば、ある一定の全体構想はありつつも、最後の陶板ができた時に決まるのである。もっと厳密にいえば、実際に作品の取り付け、設置が完了したとき決まる。こうして陶板群は、最後に主に鉄骨を支持体として連結され構築されていく。有無を言わせぬ振じ伏せるような力技で組み上げるのである。

「….僕の作品は焼いたら終りじゃなくて、なおかつ組み立てて、粘土自体もこう捏ねて。ま-本当に陶芸のプロセスですよね。それを確実にやらないとできないことをしてる。それが自分の表現にすごく合ってるという確信があるからやるんですね。」

ここに、当初のフォルムを分割して作り再び元通りにつなげるというような造形とは正反対の造形論が実現されるのである。齋藤の作り出す不定形な陶坂は、それはど複雑な形をしているわけではないが、一つとして同じ形がないためそれらが集積されると雑然とした印象を持つようになる。しかしおもしろいことに、それと同時にある統一したイメージをも喚起するのである。例えばタキシードを着て気取ったバニーのようなのもあり、立ち止まって振り向いた恐竜のようなのもある。仁王立ちしているのもあれば、“シェー”とやっているのもある。ドガのバレリーナが酔っ払って何人かで肩を組んでいるようなのもある。一方で力強いパワーに満ちていながら、人懐っこい表情をも兼ね備えているのである。それぞれの陶板は細かく神経を行き渡らせて様々な表情を持つように作られている。しかし同時に陶とはいってもはとんど釉薬が用いられていないから乾いた質感をもち、様々な表情を持つとはいっても色彩が抑えられているから決して餞舌ではない。そしてその陶板群は、それを作り出す創造の意志とフォルム自体が、隣り合う一つ一つに乗り移って行くように制作されるから、それらが連結・構築されると、あたかも正体不明の巨大な有機体が突然太古から出現したような、驚きと力動感をもたらすのである。こうした様々な造形の条件が源泉となって統一的イメージを作り出す。そこにはいわれるはどの荒々しさは感じられない。むしろ、外へ向かうのではなく、内へ凝縮していくような静かな闘志といったものがある。こうした周到に準備されたいわば無数のフォルムと質感の連携が、一方で具象的イメージを喚起させ、他方で重厚で圧倒的な迫力を作り出すのである。

「僕が土にふれるとき、伝統のいいところ、悪いところをみさだめてかたちにしたいと思っている。/土は、とても自由そうで、意外と不自由である。/また、陶になるとかたく、こなごなにすることも大変である。/そんな、土から陶への性格を自分の中で消化して、/形にあらわしていくことが正当な伝統であるとしたら、僕のシステムそのものは、伝統的なことかもしれない。」2.

なかなか勇気のいる発言である。現代の工芸的造形の中に「素材相対主義」3.が非常に顕著に発達して以来、この種の発言は常に工芸的造形を否定するものとして排されてきた。「素材相対主義」は日本ではいわゆる「前衛」陶芸の発生と共に強く現れ、従来の工芸素材を現代美術の単なる造形素材として極端に相対化しようとした。しかしそれは同時に一つの素材の絶対化との矛盾、抜き難い現代美術の後追い現象とその賛美を必然化した。欧米ではこの「素材相対主義」に対して、「スタジオ・クラフト」という概念が結果としていわば一種の歯止めの役を果たすこともあった。4.しかし最近では例えばスタジオグラスの分野で、「素材相対主義」の反動として、器物表現や工業デザインヘの回帰を主張する奇妙な後退現象が見られる。5.

日本の「素材相対主義」は、「前衛」陶芸家の転向やいわゆる超少女現象とその瓦解、あるいは陶芸のインスタレーション化とその沈静など、様々な事態を引き起こしたが、いまだに根強く存在する。齋藤はこの「素材相対主義」のもとで起こった事態を自己の表現に引きよせて再検討した。作品の大型化やインスタレーション化といったかつての陶芸の面目を一新する表現のレベルを保ちつつ、そこに専ら土を使っていることの筋を通そうとしたのである。すなわち「素材相対主義」を批判的に縦承して、その抱える矛盾を積極的に解決しようとしたのだといえる。それはおそらく最近、小松純や森野彰人6.らが見せる最も新しい動向の先駆を成すもあろう。そして近年、「素材相対主義」を克服し本質的で力強い造形を見せ始めた中島晴美、重松あゆみなどの従来からの世代と共に、広い現代美術のフィールドの中で真に自立することのできる、豊な陶造形の世界を形成しつつあるのである。

1995年7月 目黒陶芸館個展リーフレットより

註)

1. 1995年7月のインタヴユ-(以下特に断りのない齋藤の発言はこれと同じ。〕

2. 齋藤「ギヤラリー・イセヨシの個展にあたって」、1995年
3. 金子『スタジオ・クラフトを介して、アバカノヴイチから橋本真之へ-「素材相対主義」の系譜と克服-』 「東京国立近代美術館研究紀要5」1995年
4. OliverWatson,British Studio Pottery, Oxford:Phaiden /Christies,1990
この中でワトソソは、陶芸が純粋美術に移行しなかったのはバーナード・リーチが作り出した「倫理の陶器」という概念故であることを述へているが(註3金子論文参照)、これを裏返して考えてみると、工芸的造形のより豊かな発展は阻害されたものの、一方で「素材相対主義」に陥る危険は当面回避されたと見ることができる。
5. 金子「現代日本ガラス芸術論」(「グラス・アンド・ア一卜」10、1995年、悠思社)参照。

6. 対談:森野×金子(「炎芸術」40,1994年〕参照。