『自律する陶』 (2001、石川京子 美術編集・文筆家)

陶板をあたかも無造作に、いくつも焼き上げる。しかしそれは緻密な計算と豊かな経験のうえでのこと。不定形で、そして様々な表情をみせるテクスチャーをもったこの断片たちは、パーツとして鉄でつながれてゆくことにより、1個の全体となり、大きな全貌を現し、空間の中に立ち上がる。

東京都立芸術高校では油絵を描き、大学でも最初は油絵を学んでいた齋藤は、当時からの何かを表現したい強い欲求、という意味において制作者ではなく表現者であるかもしれない。その何かを表現するために陶芸を選んだのは、平面から3次元へと、限界を飛び出してゆきたかったのだと言う。齋藤の立体は、2次元から3次元への移行という出発点から、おのずと彫刻家と異なる道をたどることになる。

油絵を制作していたときには、自分と作品との距離が測れなかった。どこで筆を置けば良いのか、判断に迷うことも多かった。やきものは、その点、齋藤と作品の間に距離をつくってくれる。窯の中に入れると作品を客観視できるようになる。その距離感が、齋藤の制作を自由にさせたのだった。

1980年代末から90年代のはじめ頃に、陶の塊をワイヤーで吊した作品を作った。作品を重力から解き放つことをねらっての制作だったが、吊り下げた段階で、かえって作品が重力にとらわれてしまっていることに気づく。逆に作品を立てる方が、重力から自由になれると考えるようになった。実際齋藤の作品は、子供が昇れるほどの構造的強さがある。

巨大な作品を立ち上がらせるには物理的な法則も必要だ。最小限3点で支持し、そこから延長させて、重さのバランスを考慮しながら、構造を設計する。構造面に気を払う分、ひとつの「自律」した形として、作品を作りたいのだと言う。

鉄は陶を自律させるための支持材にすぎなかったが、造形物である限り、鉄の部分も美しくなくてはならないと考えるようになる。柔軟な鉄と不定形な陶のミックスのさせ方が、ここ10年の課題である。

当初、鉄は内部に組まれ、陶板が全面に現れていた。鉄を先に組み立てていたのである。それに陶板を合わせる。一見やきものが主になっているように見えるが、やきものである必然性がないことに気づいた。鉄に沿わせるため、やきものが不自由になるのだ。鉄を作品全体に躊躇なく露出させる方法をとることで、土の自由さに鉄が沿うことに成功する。形の出方はそう変わらなくても、陶と鉄の関係は全く異なることになる。

パーツを子細に見ると、陶芸の伝統的な手法が用いられていることに気がつく。ロクロ挽きやタタラ成形などを応用しているのがわかる。作者は、陶という素材にしか実現できない制作を確信し、実行している。柔らかい土に新聞紙やエアーパックを型にしてテクスチャーをつけ、器を作るのと同じ長い制作工程を経て、はじめてこのような形が出来上がる。

「粘土の特性をいかにうまく生かすかという点で、やきものの制作工程自体は、形が成り立つための技法上、どのようなものでも変わることはない。パッと見た目、これが陶芸かという印象とは裏腹に、ものすごく伝統的な方法で形が成り立ち、土がやきものになってゆく。作り方の面では、伝統という言葉の解釈のありかたもありますけれど、伝統に即したひじょうにやきもの的なところがあります。陶芸でしかできないことをしているのだから、陶芸家であることを全然否定はしません」

陶芸家であることを否定しないと同時、齋藤は「伝統」を否定する作家でも決してない。齋藤が大学の3年次で陶芸を選択をしたとき、担当教官の中村錦平氏に「君はどんな陶芸をやりたいのか」と聞かれ「伝統の良いところと悪いところを、ふまえて形にしたいです」と答えたと言う。それが彼の制作の原点であり、いまなお作陶の工程のなかで本質を探りながら、それを形にしたいと考えている。

1993年頃からの作品には、archetypeというタイトルがつけられている。archetypeを辞書でひくと「原型」という意味である。ユング心理学では深層心理の部分の人間の原型を「アーキタイプス」という。具体的な形ではなく、人間の深層にあるような原型、それを体現できる形をつくりたいという意味でarchetypeと名付けた。だから形はおのずと抽象的になる。

作品の表皮の部分で、いろいろな見方ができる抽象性、これを齋藤は発表の段階で観者に委ねる。「わからない」と思われることもあるだろう。とりつきにくさのなかで、見る者が心を開き、どうなっているのか、と分からないなりに何か感じ取れればよいと言う。見方には正解はないし、既成概念も必要ない。心を閉ざして怖がらずに、逆に素直に感じたままを受け入れて欲しいと作者は言う。

炎芸術66号より 2001年5月10日発行 阿部出版