4.自己表現と「イノセント」そして、、、
筆者は教育目的の最終ゴールを大衆民主主義、マスデモクラシー、つまり普通の人々が一人一人の力によって法をも換え得る現代的民主主義であると想定、措定している。したがって「大衆云々」とか「マス」何とかと命名するよりも一人一人の人間が権利と義務を意識するという立場であえて「納税者民主主義」と命名することもある。したがって納税者つまり個人に対して図工や美術科はその基底にどのような眼差しを置いたらよいかが重要な条件になるはずと考えたわけである。
その一つの視点として「イノセント意識」からの離脱が最重要と考える。イノセント(innocent)とは辞書的にいえば清浄な、無邪気なが主な意だが、さらに無害なという意味から単純な、お人好しに転ずる。
しかしこの「無害」なるコンセプトこそ、一見中立的には見えるが、大衆が力をもつ時代には無害どころか「有害」に転ずるであろうことは容易に想像できよう。古いことばでいえば付和雷同の大きな要因となるからである。
先述した芸術教育不要論には、芸術教育の意味を深く考えない「イノセント」の存在が大きく影響しと思われる。と同時に芸術と芸術教育について大衆と向き合って解決を計らなかった芸術教育家や芸術家たちの怠慢ともいえそうである。すべての人々が義務よりも権利の行使に目を奪われている納税者(民主主義)の時代においては、ノウテンキなイノセントは有害でさえある。
1945年以前の日本に存在した「高等遊民」のような、体制を更新しようとする刺激的な役割などそこには微塵もないのである。 |