3.「自己表現」と「自己拡張」
繰り返すが現代民主主義の時代とは大衆が自分の権利と義務の両者を抱え込んでいる時代である。
さらに普通の人間であれば義務より権利の方に目が移りやすいのは自然であり、そのときに「自己表現」、「自己実現」と囃し立てることは大衆の「自己拡張」を促進させるだけであろう。造形・美術教育の「鑑賞」が表現と表裏一体であるというのは、このシチュエーションを前提としつつ、鑑賞という作業によって表現の無限の拡大を自分自身によってコード化を行うこと、簡単にいえば表現に責任を持つ、持たせるということであろうか。
とくに小学校の高学年から中学生の段階にかけては、無責任な自由の拡張を自己がいかにコントロールするか、そのための目安を立てることがプロフッショナルとしての教師の役割であると思う。
ところでオルテガ( Ortega Y Gasset 1883-1955)の著作『大衆の反逆』を訳出した神吉敬三は、あとがきにおいてアメリカ合衆国における大衆の権利と人権の拡大について触れており、興味深いまとめを示している。
すなわち、アメリカ合衆国において、『大衆の反逆』こそは18世紀に展開されたルソーの『社会契約論』、19世紀のマルクスの『資本論』についで20世紀の書であるとしていることである。
私なりに誤解されることを承知でいえば、ルソーによる人間にとっての権利意識を唱い上げた時代は、次なる際限のない自由と拡張の資本の論理へと続き、そして20世紀は前2書を引き継ぎ、大衆は自己の欲求のかずかずが思いのままになる筈だという夢想の中に送り込まれてきたと考える。
大衆民主主義の理論について素人までもがラディカルに挑んでいる米国においては、法を遵守するという古典的民主主義に比べて大衆が法をも換え得るという現代的民主主義に進んだことで、拡張され過ぎた自由に戸惑いと不安を感じているのが現状であろう。
この3世紀余りの欧米の出来事をほぼ3分の1の年月に圧縮してきた日本という国とそこに生きる人々は、以上の歴史的パースペクティブの中でどのように自分達の立場を意識し、どのような方向を持てば良いのかを見つけださなければなるまい。 |