5.隠喩としての『白い風船』

 『白い風船』はイラン映画のタイトルであるが、国家と個人の緊結が強いはずのイランにおいて、個人と他者に眼を向けた作家パナヒ(Jafar Panahi 1960〜)の作品は、図工・美術教育にとって優れた他者からの「眼」であると思う。

 ストーリーは単純である。やっとのことで親から「赤い金魚」を買うためのお金をもらった少女が、金魚を買いに行く途上、商店街の側溝にお金を落としたところから物語が始まるが、低学年ほどの年齢のこの少女は自分のお金が溝に落ちたため、その助力を周囲の人や兄に頼むのだが、自分に無関係であること、大晦日であることとが重なってそれほど人々は親身になってくれない。いわば他人のことであり、そのため少女は無邪気に嘆き悲しみ、会う人ごとに自分の窮状を訴える。わずかに少女の兄だけが身近な人間として助力するが、所詮は他者である。

 パナヒは少女の自己中心的な「表現」と他者の冷たさをあらゆる場面を設定して問題を浮上させるが、その「核」となるのは無邪気なイノセントと他者との相関である。

 長く引っ張る物語ではないので結論を急ぐが、少女は年の暮れという時間切れと、排水溝カバーの間からお金を取り出す方法がついに見つからずついに絶望的な気持ちになったとき、棒の先に「白い風船」を結んで売り歩いていた少年が、まだ売れ残っている白い風船をつけたままの棒の根本で、紙幣を突き刺して少女にお金を渡すのである。少女と兄は一目散に「赤い金魚」を買いに走り去り、「白い風船」売りの少年は一人残される。少年はその日の宿もないアフガンの難民である。