『デザイン教育ダイナミズム』

第6章 教室から見たデザイン教育 -データが明かす学校教材としての実像-

直江俊雄


 1. 教室で作られる「デザイン教育」

 学校は、「デザイン教育」という企ての最終的な到達点としての学習活動が成立すると期されている場であり、将来の社会構成員である学習者へ向けてその試みが投げ掛けられる場である。一方、「デザイン教育」と密接なかかわりをもつ現代の視覚文化は、圧倒的な量をもって学校以外の場面で日々学習者を取り囲んでおり、学校はまた、社会からの投影ともいえる学習者の示す意識や感覚と、教育する側の示す「デザイン教育」とが対峙する場であるともいえる。したがって、教師には視覚文化における唯一の情報源というような特権的な地位は最初から与えられておらず、むしろ文化と学習者の間に入り、変化していく学習者と学習活動という出来事の流れの中で、その進行を調整していく役割を果たしているとみるのが適当であると考えれられる。

 「教材としてのデザイン」は、教室における人間どうしの相互作用の中で、どのように生み出されてくるのであろうか。次のような記述からは、学校で実際に成立する教材内容の決定に、指導のねらいや生徒の発達段階からだけでは想定し得ない要因がかかわっていることがうかがえる。

 もっと高い水準も要求できたのに、普段の学校生活の中での様子を見て、「これをやってみたいけど、道具の片づけができそうにないな。」とか、「道具忘れが多いと成立しないな。」とか、本質からずれた心配をして、それによって教材を考えてしまう。

 一見些細な問題、教師から見ても「本質からずれた心配」と思えるようなことが、教材の決定にかかわっている。生徒の忘れ物は教師にとって重大な障害であり、地域の研究大会の分科会の発表テーマとして真剣に扱われる問題でもある。また、生徒に一切道具を持ってこさせないで、あらかじめ一括購入で美術室に用意したものだけを使用させるという指導法を採る教師もいる。このような場合には、準備可能な用具の範囲から、教材選択に影響が及ぶであろう。

 また、次のような事柄が教材の選択に影響を及ぼしている場合もある。

 本校では生活指導面で問題が多いため、1・2年の2時間続きを1時間づつにしている。片づけなど不可能。また、粘土を投げたりする心配あり。

 学校における実際の教育活動は、「指導計画」のように整理されたものでもなければ、胸を打つ実践報告のような報われる結末が常に待っているわけでもない。教師と学習者と教材との間で無数のでき事が発生しては完結しないまま積み重なっていく、その混沌の中に意味を与えていこうとする日常的な作業の繰り返し、これらなくしては他のどこにも美術(デザイン)教育は存在しない。一見不完全なようにみえる、さまざまな学校で行われつつあるこれらの活動の総体こそが、美術(デザイン)教育の生起する場である。この章ではこのような認識に立って、教科書などの文献に示された一定の基準と、日々変動する学習の場面から成立してきた「実施されたカリキュラム」とを対置しながら、デザイン教育に関する現象をある一面から記述してみたい。

<以下、省略>


Copyright (c) Osamu MIYAWAKI et. al, 1993


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