『デザイン教育ダイナミズム』


宮脇 理


 デザインなる語は、かつては造形芸術を中心にして使われてきたが、いまや人間営為のほとんどにわたっている。したがってデザインにかかわる教育もこれらと同様に拡がりつつある。いわく「教育のデザイン」、「健康のデザイン」、「運営のデザイン」などなどであり、それらには同数のデザインによる教育が存在する。これらは以前、デザイン学会の会長であった故勝見勝氏が造形全域にわたって、デザインのピラミッドを示した時代に比べると隔世の観がある。しかし多様な範囲にもかかわらず共通のコンセプトを示すならば、デザインは「計画の論理」に象徴される。

 本書は以上のような「計画の論理」が乱舞する現象の中で、用語としては早くから使用された歴史をもっている造形芸術を対象とし、デザインにかかわる教育の歴史・現象・接近そして展望を語ろうとするものである。しかし教育の問題はデザイン現象をそのまま提出して済むほど単純なものではない。なぜならば、教育には価値に関する生産と再生産という問題がいずれの年齢・段階においても考えられ、それへ目を向けるならば、計画の論理には同時に「計画の倫理」を内在させていることが自明だからである。それはひとえに教育が文化と人間観との協働の作業を必要とすることに理由がある。

 ところでかつて『脱学校の社会』を書いたイヴァン・イリッチ(Ivan Illich 1926〜 )は、学校という「パラダイム」批判を行ったが、イリッチの思想には、現代の学校制度に集中雨のように現れているもろもろの問題は、実は学校制度以外の医療、交通その他の制度にも同様に起こっており、まずは学校制度に焦点をあて、これを克服することができれば、現代の産業社会が築いている文化、およびそのエートスをラディカルに変革することが可能であるとする立場を主張されたが、この警告ともいえる示唆には、多様な教育とりわけ学校という制度的枠組みの内部構造が、多数の人々の合意が得られるような装置、つまり「教え込む」ことができる機構をすでに取り込んでいるため、ひとたび優先する対象や(カリキュラム)が決定した場合、教育の初源的なサイクルから生まれる修正の倫理や感性などは、現実を原則とする強力な側面や、それについてのデリケートな関心によって排除されてしまうことの指摘であったと思う。

<以下、省略>


Copyright (c) Osamu MIYAWAKI et. al, 1993


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