ハーバート・リード 著 『芸術による教育』
Herbert Read Education Through Art

宮脇理 岩崎清 直江俊雄 訳 

粟津潔 装幀
フィルムアート社 2001年 ISBN 4-8459-0124-2

第1章 教育の目的
 1 命題

 この本の中で私が提示する命題は,独自のものではありません。それは,はるか以前に,プラトンによって明快に打ち立てられたものです。私の希望は,教育における芸術の機能に関する彼の観点を,私たちの現在の要求や条件にそのまま当てはめることができるような言葉へと翻訳することに過ぎません。
 哲学の歴史において,実に不可思議なことの一つは,この偉大な人物の遺したもっとも大切な考えの一つを,彼の後継者のうちだれ一人として真剣に取り扱わなかったことです。シラーのみが,ただ一人の例外でした。研究者たちはプラトンの命題を,おもちゃのようにもてあそんだのです。彼らはその命題の美しさや,その論理,その完全性を認めはしましたが,その可能性を実行に移そうと考えたことは,一瞬たりともありませんでした。彼らはプラトンのもっとも情熱を込めた理想を,失われた文明の中でのみ理解できる,無用のパラドックスとして扱ってきたのです。
 その命題とは,芸術を教育の基礎とするべきである,というものです。
 このように簡潔に述べると,確かにそれはパラドックスのような響きを持っています。しかし,パラドックスとは,言葉を聞き慣れない方法で使用するために,一見して不合理に感じられるものなのかもしれません。そこで私は,ここに取り上げられた二つの言葉,「芸術」と「教育」についての一般的な定義を与えることから始めたいと思います。プラトンによる道理にかなった命題が誤解されてきたのは,第一に,彼が芸術という言葉によって何を意味したのかということが,何世紀にもわたってずっと理解されてこなかったからであり,第二に,それとほぼ同じような年代にわたって,教育の目的が不確かであったためであると,私は信じています。
 

 おそらく読者の皆さんは,芸術の本質について私の定義は客観的なもので,それについて異論が生じることはあり得ないと納得されるでしょう。その定義は,複数の観点を許さないし,また,なんら深遠な要素をも含んではいません。それは,芸術を自然現象の世界に持ち込み,本質的要素においては,科学的法則がその基礎を置く測定の方法に芸術を従わせるものです。しかしながら,私が教育に求める目的については,一般的な合意は,すぐには得られないかも知れません。そこには,少なくとも二つの相容れない可能性が存在するからです。その一つは,人は,その人自身になるように教育されるべきである,というものであり,もう一つは,人は,その人自身でないものになるように教育されるべきである,というものです。最初の観点が仮定するのは,それぞれの個人は,生まれながらにして,自身にとって決定的な価値を持つ一定の潜在的能力をそなえており,無限に多様な類型を許容することのできる自由な社会の枠組みの中で,これらの潜在的能力を発展させることが,その人にとって正当な宿命である,という考え方です。二番目の観点が仮定するのは,個人が願わずしてその構成員となった社会の伝統によって決定される,ある理想の人格に順応しないならば,その人が生来どのような特性を持っていようとも,それを根絶することが教師の義務である,とする考え方です。

(以下の節省略)

2 二つの仮説
3 予備的な定義
4 要約

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