1.未熟な民主主義と図工・美術科

 私の脳裏に記憶されている図工・美術科にかかわる暗い風景の一つに、1970年代後半のアメリカ合衆国・ニューヨーク市において芸術教育不要論の声があがり、ニューヨーク市は小学校の芸術専科教員のおよそ99%を馘首した事実が浮上する。

 さらに同様の事態が全米に燎原の火のように拡がったが、このいきさつについては、ほぼ同時期に日本にもアメリカ大使館の広報誌を通じて知らされていたので、早速、某ジャーナル誌の定例研究会で情報検討に入ったのであるが、なんといっても大きな衝撃は、芸術の街といわれるニューヨーク市でこの事態が起こったことであり、世間の「芸術」活動と学校の芸術教科とがいささかも連動していないことを改めて知らされた。

 芸術活動の盛んなニューヨーク市がなぜ小学校の芸術教育を全廃の瀬戸際に追い込んだのかという事実にかかわって、もしも−−if−−もしもであるが、日本でも同様の事態が起こったならばという気持ちもあり、当時刊行された、実践造形教育大系・第2巻(開隆堂出版)の拙著『現代子ども像と造形教育』では、多くの頁を割いてこのことについて書いたものである。

 アメリカ合衆国が彼らの経済基盤の変動によって学校の芸術教育の存在を左右したことと、一方、経済動向の如何にかかわらずいわゆる「ヨミ、カキ、ソロバン」などへ支持は不変であることなど、米国も日本も同様であることが解ったが、米国の場合、先の事態に対して当時34歳であったロックフェラー2世の発声によって「Coming to Our Senses」なる巻き返し運動が生まれ、日本ではとうてい起こり得ない運動の過程と成果に対し別の衝撃を受けたものであった。

 芸術教育を不要と感ずる大衆もいれば、芸術教育をすべての教育の根底に置くべきだとする立場の双方が解決を図ろうとするダイナミックな構図こそ、米国が実験を試みる現代民主主義の強さなのであろうか。

 日本の場合、「もしも」同様の事態が起こった場合、芸術教育に対する大衆の思い入れには大差ないとして、その後の展開は全く違ったものとなったはずである。なぜなら日本の議会制民主主義は形態こそ整えてはいるものの、大衆と代表(制)との関係が形式化しており、そのため、反対や意義申立ての運動は結果として「陳情」と同様の流れに変換させられることは常識だからである。大衆が力を持つ時代の民主制度は、すべての人々にとって真の意味での民主主義の理解と質の高さが要求されることは確かなようだ。