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はじめに
1990年の秋、私は上越教育大学の招聘教授として招かれたことがあった。新潟県上越市にある上越教育大学は、1970年の後半に大学院教育や研究を促進するために創設された日本における三つの新構想大学の中の一つである。
当時、私の最大関心事は、日本の学校における美術の指導や学習文化を独特に形成している有機的な行動様式の意味や制度を解明することにあった。
私は、学校における美術の授業参観とか、日本の美術教師の生徒にとって、美術の指導や学習とはどのようなものであるかについて、教師や生徒の行動様式や発言、鑑賞したり学習したりした作品から、文化的推測をすることを楽しみにしていた。私は、日本の教育が高度に中央集権体制であることや美術を含めた学習指導要領があり、18才までの殆ど全ての日本の子供達が高いレベルの普通教育を享受していることが、西洋先進国の羨望の的となっていることもまた知っていた(ホワース,1989;ホワイト,1983)。
私は、日本の学校のシステマティックな観察が、美術教育カリキュラムの中心的内容やその到達水準について、有益な比較資料をもたらしてくれる可能性があることを理解してもいた。
私はまた、近代日本が西洋的な美の概念、方法、思想を取り入れた東洋文化の一例であり、しかも、驚く程ユニークな芸術的アイデンティティを保持してきたことも知っていた(スパーク,1987)。
3ヶ月間にわたる実地研究の間に、4週間をもっぱらA中学校の訪問に費やした私は、美術教師B教諭の授業を全て参観し、6週間で構成されている授業の最初から終わりまでの進展をたどり、ノートや写真に記録することができた。私は、三回も始業から終業まで先生に付いて回った。職員会議や校外学習に参加させてもらったり、A中学校の生徒作品も出品されている美術作品コンクール審査会に出席したりした。その上、B教諭の自宅にも招待され、通訳を介して二度の正式面談をすることができた。
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