宮脇 理 編 『緑色の太陽―表現による学校新生のシナリオ』

国土社 2000年 ISBN 4-337-48213-X
Copyright (c) Osamu MIYAWAKI et. al, 2000

第3章 日本と英国―芸術と教育の連続性をめぐって 直江俊雄

一 異邦人の目で日本の美術教育を見る
 (一) 日本と英国―二つの振り子

 他者の目を借りることによって,普段,認識の網を免れている自らの特異性が見えてくることがある。本章の目的は,日本と英国 という双方の視点を往復しながら,今日の美術教育の問題を描き出し,今後の可能性の一端を見通そうとすることにある。私の立場は,日英のいずれかが,より理想的であるとか,より「進んで」いるとかの固定的な認識をとらない。視点を変えれば,進歩は退歩であり,一方で目標とするものが他方では問題点ともなり得る。
 英国のある教育者は,自国の美術教育には,思想と計画のみで,実現がないと自嘲する。その言を借りるならば,日本はその全く逆の特質を示していると言えなくもない。英国は日本に,集団と伝統と手仕事の価値に関するモデルを求め,日本は英国に,個人と革新と独創の価値に関するモデルを求める。日本と英国は,互いに欠落部分を求めて往復運動を繰り返すだけの,二つの振り子なのであろうか。
 日本の子どもたちが表現する作品には,画一的な様式で細部まで入念に仕上げられたものが多く見られることは,国際的な比較などにおいて,従来から指摘されてきた一般的な傾向であった。(現在では,それも変わりつつあると思うが)。ある英国の研究者は,その達成の過程に関心を持ち,あたかも「文化人類学者」として日本の中学校という「部族
集団」の中に「入り込み」,数週間にわたって美術の授業の観察を続けた 。また,日英の共同研究チームは,両国合わせて約1900の中学校の美術教師からアンケートを回収し,その教育観や方法等について比較を行った 。私は,これらの調査に関わり,また,個人としても英国に約一年間滞在し,主として中等学校における美術教育の制度と実際について調査を行ってきた。そして,これらのプロセスの中で,外国の研究者からの,日本の美術教育に関する無数の「なぜ?」に答えようとする中で,内部と外部の視点を往復することになった。
 以下に描くのは,これらの経験の複合の中で生まれてきた,私自身の印象や解釈が相当に織り込まれたものであり,必ずしも,一つ一つの調査結果に明確に対応する根拠をもつものばかりではない。しかし,こうした視点の往還を経てとらえ直された,日本と英国の学校美術の現象と,その背後の構造に関する一つの解釈として,あえて提示してみようと思う。視点はまず,英国人の目を通して見られた日本の美術教育の情景描写から,その構造分析に踏み込み,次いで,日本人の見た英国の美術教育の概況について触れ,最後に再び日本の姿に立ち帰り,その未来の可能世界の一つについて,思いを巡らせていく。

 (二) 日本の学校美術の「生態」

 教科における専門性が重視される英国の学校に比較して,全般的な「人間形成」に重きを置く日本の学校における美術のための環境や設備は,貧弱に映る。普通,壁面が参考資料や子どもの作品で埋め尽くされている,にぎやかな英国の美術教室などに比べて(写真1),日本の教室は,工場のように無機的である。この,教室という均質な箱の中に,多人数の生徒が押し込まれて一斉形式の授業を展開している。教師は様々な活動を兼務して常に多忙で,子ども一人一人に目を配ろうとするが,充分にできない不満を抱えている。このように,およそ美術の学習を行うのに,良好とはいえない環境下で,比較的質のそろった,「高水準」の作品が生み出されてくるのである。肯定的な条件といえば,教師と子どもたちの信頼関係や,比較的高い学習意欲しか見あたらない。
 さらに詳しく授業の過程を見ていくと,美術教師は,あまり美術について作品を見せたり,話し合ったりしない。子どもに大人の基準を押しつけず,自由に表現させるためであるという。また,技術的な指導は重視していないという。時間割に対応した作業の段階を守らせること以外には,ある意味で「指導の欠如」とも受け取れる教師の態度にも関わらず,子どもたちは,するべきことを心得ているようで,熱心に作品を作っていく。しかし,子どもたちは,全く真空状態から表現するのではなく,どこかから,表現のための源泉や,様式的影響,技術的な達成度の指標を得ているのではないだろうか。それは,展覧会の入賞作品例か,公然とはあまり使用されない教科書の図版か,技術的な手順が満載されている副読本などの教材か,あるいは,現代のアニメーション作品か。もしかすると,さらに曖昧な,「日本独特の空間に対する美意識」のようなものに導かれているのか。

 このように,子ども独自の表現であるとしながら,その発想の源泉や思考の過程は多くの場合,(西洋人の合理的な観点からすれば)明確に説明されることはなく,その独自性の検証を困難にさせる構造をもっている。すなわち,表現過程における批評的プロセスの不在である。そのことは,表現と探究の過程について子どもに自ら説明することを求める英国に対して,学習に対する熱心さを求める日本というように,学習の評価方法においても現れている。
 教科書や副読本以外に,教師や子どもたちが自主的に選んだ参考図書や資料,視聴覚などの教材を用いることは,英国に比較して極端に少ない。美術館・博物館などを利用した割合は英国の約三分の一である。教師や子どもたちが自ら学習対象を選択したり,学校以外の美術に関する情報源と触れることが少ないということは,余裕のない日本の学校の貧しい状況の反映であると同時に,あらかじめ選定された情報に専ら依存する,一種の隔離された状況を示すものでもある 。
日本の小中学校における美術の学習は,主として子どもの個人的な発達に関わる範囲を目的としており,将来の産業振興や専門性への発展などといった関心は,むしろ除外されている。教育目的・内容における専門的側面の排除はまた,学校内のみで完結する,特殊な美術活動の存続を助長している面もないとは言えない。一方で,英国の教育においては,教育の所産として具体的な社会的改善が目的とされることは自明であり,小学校から高等教育段階までの教育内容の一貫した最終目的に,英国の美術とデザインの国際的競争力の増強,およびそれを支援する成熟した観衆の育成を主張することは,公共の予算を用いた教育活動として当然の責務と考えられているようである。

(以下省略,見出しのみ)

 
(三) 児童美術と伝統的規範―閉じられたサイクルの中で―
二 異邦人の目で英国の美術教育を見る
 (一) 英国における教育の危機と美術教育
 (二) 統一的評価と多様性
 (三) 多文化主義と美術批評
三 そして,再び日本へ
 (一) 日本における変化の波と二つの呪縛
 (二) 美術と美術教育の断絶を超えて

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