宮脇 理 編 『緑色の太陽―表現による学校新生のシナリオ』

国土社 2000年 ISBN 4-337-48213-X
Copyright (c) Osamu MIYAWAKI et. al, 2000

  まえがき 宮脇理
 本書は,既刊『4本足のニワトリ』(国土社,1998年)の続編である。
 近代の特性の一つとして生まれた「学校システム」のなかで,摺り合わせるようにして始まった表現の自由は「ニワトリの足を四本に描いてもかまわない」に象徴される。しかし,残念ながら自由な表現は,効率を重視する硬直したカリキュラムの中に囲い込まれた歴史に終始されたように私は判断している。
 この疎外から分裂,さらには無視された斯界の状況について,小野二郎さん(1929〜82年)は,かつて私に次のように話してくれた。
「美術教育運動者の骨格には共通したものがありますね。それはたびたびニイルを引用しつつ,教育において現在最も重大な問題は,いかにしたら心を頭に追いつかせるかということです。しかしこれは違います。知性と感情の分裂という事態を,分裂されたままの感情をそのことに疑いを抱かずになんとか操作すること,陶冶といいかえてもよいのですが,それによって克服できるという考えは...」
 変形されてしまった教育という営みの中で,「分裂させられたままの感情をそのことに疑いを抱かずに何とか操作すること」とはなんとも耳の痛い指摘であった。さらに小野さんの斯界・斯学への批判には,ウィリアム・モリス(William Morris 1834〜96年)の研究者らしい芸術カテゴリーの立て方があり,そこに鋭い皮肉が込められていたことを思い出すのだが...。
 しかし,教育の営みに特定の価値を強いられ,学校のなかでそれに沿った価値の生産と再生産が繰り返されたとき,つまり中立的であるべき教育組織が抑圧の構造を取り入れた瞬間,教育は<抑圧>と<被抑圧>の関係をはてしなく生み出すのである。そして,自然状態から制約が付されて転送された学校教育では,芸術とか造形の教育(一段と下位構造に置かれた教育グループ)は,息をつくことさえできない状態に置かれたきたことも事実である。
  それについては筆者も,1969年にアメリカ合衆国最高の文学賞である全米図書賞を獲得したポーランド人,イェジー・コジンスキー(Jerzy Kozinski)の著作『異端の鳥("The Painted Bird")』に造形芸術教育の現状を重ねて見せたことがある。
 理由は彼の<The Painted Bird>が象徴的にして土俗的な形で語られていたがために,文化とか制度,因襲の問題にダブらせて見ることも可能であり,また造形芸術教育が置かれている場も同様であったからである。しかし,少数派のコジンスキーは,1991年春に死を選んだ。
 いまここで14年前(1986年)に某誌に書いた筆者のペシミスティックな文章を再録したい気持ちもあったが,この場所ではこれを避け,高村光太郎の「緑色の太陽」にオマージュし,さらにこれを起点としてあらたに「表現による学校新生のシナリオ」を描くことに場面を移したい。


 本編を編みながら「もしかしたら」これまでの状況を一変できるかもしれないという希望が生まれるのを感じる。理由は,斯界・斯学のケレン味のない新人群が登場し,新しいメディアに内在する相互啓発のしくみを活用しているからである。加えてこの20世紀の大半(1914年から91年まで)をイデオクラシー,つまり<イデオロギー強権政治体制>と措定したジャン・ベシュレルのカテゴリーを援用することにより,いま一度「振り出し」に戻って,捻れて部分突出した日本の近代化現象を造形・美術教育の側からつくり直してみようとの気概が筆者に起こっている。
(以下省略)

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