平面図(Krautheimer1986より)    アクソメ(Krautheimer1986より)

ハギア・ソフィア■建築の説明

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 「扉口を通り抜けた瞬間から感激は始まっている。その瞬間、まだドームの全容は見えないのだが、何か想像を絶した構造と空間がすぐ目の前に展開されるという予感が、それこそ全身に走るのである。 (中略) 偉大な建造物に接するとき、われわれはしばしばそれを建設した建築家の才能と努力に思いを馳せるが、初めてドームを仰ぎ見たその瞬間、少なくとも私にはその余裕すらなかった。 (『建築巡礼17イスタンブール』日高健一郎より)  」

東西方向断面図

                                                   

      ハギア・ソフィア大聖堂は単にユスティニアヌス1世時代の教会堂建築ないし初期ビザンティン建築を代表するばかりでなく、西洋建築史全体の流れの中でも最も重要な作品の一つに数えられる大建築である。ボスポラス海峡を見下ろす高台にあって、その美しい丸屋根は中世コンスタンティノポリスの魅惑的な景観の中心であった。 教会堂の中央には、径約31メートルの大きなドームが架構され、その東西には、半ドームが位置する。中央ドームとその両脇の半ドームが教会堂の身廊を構成し、円柱列で隔てられた両側には側廊に対応する細長い空間が展開する。身廊と側廊に分かれる点で、ハギア・ソフィア大聖堂は基本的にはバジリカ形式の教会堂であるといえる。頂高56メートルに達する前例のないこの空間は、皇帝ユスティニアヌスと二人の建築家トラッレスのアンテミオスとミレトスのイシドルスによって、構想された。  

 

「ピアは、その上に伸びる構造が及ぼす力に耐えることができず、突然傾き始め、崩壊寸前の状態になった。アンテミオスとイシドロスの職人たちはこの事態に恐れをなし、…皇帝に状況を報告した。何によってかは分からないが、おそらく神によって力を受けた皇帝は、アーチの曲線を完成させるよう直ちに命じた。」(プロコピウス『建築』I,i

この6世紀の史料が伝えるように、ハギア・ソフィア大聖堂の建設は、前例のない、きわめて困難な大事業であった。皇帝と二人の建築家は、当時一般的であったバジリカ形式を採用しつつ、何故、その細長い空間とは本来矛盾するドームをそれに組み合わせるという構想に執着したのであろうか?同時代史料から確答を得ることはできないが、特に皇帝には譲歩しえないいくつかの条件があったと思われる。まず、会堂の屋根は煉瓦造でなければならなかった。ニケの乱では木造の小屋組みに火を受けた旧会堂が全焼したからである。また、新しい構造は旧会堂を凌ぐ規模をもたなければならなかった。叛乱鎮圧後ただちに帝位の威厳と帝国の財力を顕示する必要があったからである。

 木造の小屋組みを前提とするバジリカ形式という選択肢は、耐火性、および梁材の長さによる横断スパンの限界(旧会堂はほぼこの限界に近い規模であった)から、設計初期段階で消されたであろう。幅の広い身廊を1スパンで覆うヴォールト架構は、推力に対抗する横壁に開口部を設けることができなかった。残る選択肢は、小規模建築に採用されていたドームを連ねてバジリカ形式を覆うか、ドーム自体を最大限に拡大するかであった。皇帝と建築家たちは、この最後のもっとも難しい可能性を追求したのである。

 ハギア・ソフィアの空間は、その大ドームによって覆われる空間として語られてきた。これは正しい。建築物としてのハギア・ソフィアのすべてはドームから始まり、ドームに関わる。堂内のすべての空間、その光と影のすべてはドームに支配されている。自重以外の荷重を支える構造部材のすべては、何らかの形でドームの巨大な重量を分担していると言ってもいいであろう。

しかし、この感覚的理解は、あと一歩分析的に進める必要がある。大ドームをペンデンティヴ・ドームとすることで、平面における円形は正方形に巧みに変換され、ペンデンティヴの起きょう点以下は通常の教会堂形式の空間語彙で構成することができた。そもそも、ペンデンティヴはドームから方形空間への変換器として考案された独創的な道具であった。しかし、ハギア・ソフィアの設計者たちは、ペンデンティヴを用いつつ、敢えてその特性を和らげたのある。ドームは東西方向で半ドームに連なり、ペンデンティヴが定める方形の枠を越えて半円形の空間が軸船方向に広がる。この場合、床面では、身廊、側廊の区画が列柱によって決まるので、この半円形の広がりは床面に反映する前に処理しなければならない。しかも、一般形式から求められる側廊ギャラリーが挿入されるので、ペンデンティヴの起きょう点から床面までに大きな余裕はない。

設計者たちは半ドームと床面のバジリカ形式との接合要素として、今日エクセドラと呼ばれる半円構造を導入した。半ドームの基部にこのエクセドラの半球面が開くことによって、半ドームの半円形の突出は和らげられ、穏やかに床面のバジリカ式構成に連結される。特に東端部では、このエクセドラがアプシスと美しい三連の調和を保つ。

ハギア・ソフィアの空間的独創性は、このエクセドラの導入にある。高く広く頭上に浮くドームの球面は、半ドームを経てこのエクセドラの殻面とアーチと円柱に降りてくる。この種のエクセドラに前例がないわけではない(ハギオス・セルギオス・カイ・バッコス聖堂)が、集中形式の小空間ではなく、バジリカ形式とドームの矛盾を緩衝材として、堂内に立つものの視線に近い位置で穏やかに解決する要素とみなしたハギア・ソフィアの構成法は、おそらく構造と空間と典礼の限界を考慮したきわめて高度な創造であったと言えよう。

 

 

建築の略年表

          360年        コンスタンティウスが第一聖堂を献堂(これ以前はハギア・イレーネ聖堂が大聖堂)

            404年        聖ヨハネ・クリュソストモスの弾劾に伴う騒乱で大部分が焼失

            415年        テオドシウス2世により再建、献堂

            532年        ニケの乱で焼失後、再建開始

            537年        ユスティニアヌス帝による現在のハギア・ソフィア大聖堂完成

            557年12月      大地震

            558年 5月7日   中央ドーム崩壊

            562年                 中央ドーム再建

            869年頃              南北テュンパヌムの改修補強                

            989年10月26日    西側半ドーム・アーチ崩落

            989〜994/995年 西側半ドーム再建

            1346年5月10日    東側半ドーム・アーチ崩落

            1346〜53年         東側半ドーム完成

            1847〜49年         フォッサーティによる修復

            1935年〜           博物館として公開   

 

©ハギア・ソフィア学術調査団

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