20世紀前半の英国における美術教育改革の研究

マリオン・リチャードソンの理論と実践

直江俊雄 著

建帛社 2002年 ISBN 4-7679-7046-6 C3037

概要 

 本研究は,20世紀前半の英国における初等・中等教育段階の美術教育改革について,主として学習者中心の教育思想および方法の形成史の観点から探究したものである。ここでいう美術教育改革とは,方法的には,定型的な模写からの離脱と,学習者自身の感覚や思考に基づく個別的表現への転換を含み,思想的には,子どもおよび一般の人々すべてが,指導者の設定した基準の受容者にとどまることなく,自らが主体者として固有の価値を生み出しうる存在である,とする理想を共有している。英国と日本を含む複数の社会の学校教育において,今日の美術教育における主要な思想的基盤を形成したともいえるこの改革は,およそ1世紀を経て,西洋近代美術自体が相対化されつつある現在,近代美術における個人の表現への視点と,教育における個人の価値の尊重との接点に生じた思想的運動の一つとして位置づけられるべき時に来ている。その意味で,本研究の成果は,英国における一時代の解釈にとどまらず,我が国を含む近代の教育を再考する上で,普遍的な視点を提供するものである。本研究では特に,英国におけるこの改革において中心的役割を果たしながら,これまで体系的研究が不充分であった教育者マリオン・リチャードソン(Marion Richardson, 1892-1946)の理論と実践について,近年公開された未刊行資料の詳細な調査を通した独自の解明を行い,この運動に関する今日からの再解釈を提示するとともに,新たなるカリキュラム開発の基盤となる観点を示唆している。
 
 第1・2章では,一般国民への教育機会の拡大と,自国の美術・デザインの後進性の克服という英国の社会的課題の中で展開された,リチャードソンの個人史を含む改革運動の発展過程を,当時の書簡や文献資料の解読から明らかにしている。特に,英国近代美術評論を確立し,この改革運動にも積極的に関与したロジャー・フライ,ハーバート・リード,ケネス・クラークら思想家との直接的な相互影響についての解明は重要である。第3・4章では,リチャードソンの未刊行講演原稿の中から主要な7編を中心に解読し,その思想と方法の形成過程を探究している。理性を超越した普遍的経験としての美術を強調し,内面的イメージの確立(ビジョン)と画面構成の統一感(パターン)との協働を必須とする観点など,独自の美術教育論の存在が明らかとなった。第5章では,これまでの史的研究において看過されてきた内面的イメージの描画である「マインド・ピクチャー」について,カリキュラムにおけるその独自の機能を位置づけるとともに,当時の生徒作品の体系的分類を完成し,年代の推移に伴う教育方法の発展を明らかにした。第6章では,教育方法を包括的に検証し,その実践上の問題点を批判的に再解釈するとともに,現代のカリキュラムにおける適用の可能性について,例えば,学習者中心の教育の成立における自発的学習と知識や言語による批評的学習との協働関係の必要性などを通して論じている。


目次


まえがき


序章 本研究の目的と方法,および論文の構成

第1節 目的と背景
1. 問題の所在
2. 従来のリチャードソン像
3. マリオン・リチャードソン・アーカイブの可能性

第2節 先行研究の評価と問題点
1. アーカイブ成立以前の資料に基づいた研究
2. アーカイブ資料に基づいた研究
3. 我が国における経緯

第3節 本研究の特質と方法

第4節 論文の構成


第1章 思想形成と初期改革

第1節 社会的・文化的背景
1. 20世紀初頭の英国社会と教育
2. 20世紀初頭における英国美術の動向
3. 美術教育改革前史

第2節 バーミンガム美術学校卒業まで
1. 家庭環境と教育
2. バーミンガム美術学校
3. キャタソン-スミスによる啓発

第3節 ダドリー女子ハイスクールにおける
    初期改革
1. ダドリー女子ハイスクール
2. 美術教育観の変革とポスト印象派展
3. 方法上の変革

第4節 オメガ邂逅から啓蒙的活動へ
1. オメガ工房と1917年子ども絵画展
2. フライの美術教育観への影響
3. 展覧会と講演
4. 社会的活動


第2章 美術教育改革の展開

第1節 ロンドン移転
1. ダドリー離職とロンドンでの教室開設
2. インデペンデント・ギャラリー展覧会
3. フライ「子どもの絵画」
4. マーガレット・ブーリーによる美術鑑賞力調査

第2節 多数の非常勤職と教師教育
1. ロンドン・デイ・トレーニング・カレッジ
2. ロンドン市教師講習会
3. その他の活動

第3節 教育行政
1. ロンドン市美術視学官
2. ゴレル・リポート
3. 1933年ロンドン市子ども絵画展覧会
4. 海外における評価とフライの死

第4節 美術教育改革の成果
1. ライティングパターンの発展
2. 絵とパターン-リチャードソンとリードの議論
3. 1930年代における美術教育改革の諸成果
4. 1938年ロンドン市子ども絵画展

第5節 回想録執筆と追悼
1. 引退と回想録執筆
2. 元ダドリー生徒からの資料収集
3. 追悼と展覧会
4. 『美術と子ども』出版


第3章 前期講演原稿

第1節 1918年講演
1. 講演の位置づけと構成
2. リチャードソンの美術観と美術教育観の原点
3. 方法の提示
4. 再現描写の訓練への批判
5. 「自由」への批判

第2節 1919年講演
1. 講演の位置づけと構成
2. 「1919年講演拡張版」の全体構成と導入
3. 描画教育の現状認識
4. 美術に対する価値観の混乱と「ポスト印象派」思想
5. 美術教育における価値の混乱と教師の要件
6.「ビジョン」と二つの困難

第3節 ダドリー教育協会講演(1920年)
1. 講演の位置づけと構成
2. 描画教育の諸理論I-観察描写の系譜
3. 描画教育の諸理論II-記憶画の系譜
4. 自己批判の原則
5. 教師の役割


第4章 後期講演原稿

第1節 ロンドン市講演(1925年)
1. 講演の位置づけと構成
2. リチャードソンの教育方法の形成史
3. 歴史的認識と改革への意志
4. 対案の提示

第2節 心理学会講演とその周辺(1925-29年)
1. ブリストル講演と心理学会講演(1925年)
2. 教育省講習会(1929年)

第3節 「直観と教授」(1930年)
1. 講演の位置づけと構成
2. 描画指導の目的論
3. 描画指導の基準探究
4. 描画指導の全体構造


第5章 内面的イメージに基づく教育方法

第1節 マインド・ピクチャーの意義と役割
1. マインド・ピクチャーの定義
2. マインド・ピクチャーに関する認識の変遷
3. 学習活動におけるマインド・ピクチャーの機能

第2節 アーカイブにおけるマインド・ピクチャー
    作品の保管状況と分類方法
1. 全般的な保管状況とデータベース化
2. フォルダー収納作品の特徴と位置づけ
3. ハーバート・リードによる分類
4. アーカイブ資料に即した分類

第3節 マインド・ピクチャー作品の
    年代による分類と特徴
1. 年代区分
2. 前期(1916-19年)
3. 中期(1920-24年)
 a.最初の「マインド・ピクチャー」の記入
 b.形態分類の傾向から
 c.リチャードソンのロンドンへの移動の影響
4. 後期(1925-29年)


第6章 教育方法の全体構造とその適用

第1節 リチャードソンの教育方法の構造
1. 3種の指導計画書
 a.指導計画書の年代特定
 b.第一指導計画書
 c.第二指導計画書
 d.第三指導計画書
2. ワード・ピクチャーの方法と作品
 a.ワード・ピクチャーの定義と特質
 b.ワード・ピクチャーの主題と作品の例
 c.ワード・ピクチャーの位置づけ
3. その他の描画学習の方法
 a.詩や物語
 b.ビューティ・ハント
 c.材料や色彩の諸練習
 d.静物
 e.人体
4. パターン作成の方法と作品
5. 美術批評の方法

第2節 リチャードソンの教育方法における
    実践上の問題点
1. 「フーパー書簡」
2. リチャードソンの教育方法における二つの原理
3. 「類似性」批判の根拠
4. 学習者中心主義と中等教育
5. 「フーパー書簡」の構成とその背景


結語
1. 歴史的影響関係について
2. 失われていたリチャードソンの言葉
3. よみがえる「マインド・ピクチャー」
4. 教育方法の包括的検証
5. 美術と教育の連続性をめぐって


リチャードソン関連年譜
図版出典一覧
文献一覧
あとがき
索引

 本書の刊行は,平成13年度日本学術振興会科学研究費補助金(研究成果公開促進費)の助成による。