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ベルリン:ポツダム広場と石碑の広場

木村浩(2005年)

2005年の8月ベルリンを訪れた。1961年にできたベルリンの壁は冷戦時代の象徴であった。そのベルリン壁が崩壊したのは1989年である。その後、ベルリン各地で再開発が進められ、特にポツダム広場の再開発は、統一ドイツの象徴として行われている。
 ポツダム広場は、かつてのベルリンの中心的な場所であった。第二次世界大戦では徹底的に破壊され、その後のベルリンの壁で分断された地区である。長く荒れ地だったポツダム広場の再開発は、1999年から進められた。レンゾ・ピアノ設計のダイムラークライスラーシティ、ヘルムート・ヤーン設計のソニーセンターがポツダム広場の中心となり最新の表情になっている。ポツダム広場交差点の歩道にはベルリンの壁の一部をそのまま展示し、壁の跡が分かるように形跡を表し、説明パネルを設置している。

ポツダム広場
ダイムラークライスラーシティ(左のビル)、ソニーセンター(右のビル)
postdum07.jpg
信号
歩行者信号
ダイムラー
ダイムラークライスラーシティ内
ソニーセンター内
ソニーセンター内
壁の跡 壁
壁の展示
ブランデンブルグ門
ブランデンブルク門
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ポツダム広場を北に800m程行ったところにブランデンブルク門がある。ブランデンブルク門は、ベルリンの顔ともいえる象徴的な建造物で、高さ26m、1791年にでき観光の名所である。ベルリンの壁はブランデンブルク門の裏側を貫き、門自体は東に属していた。そのブランデンブルク門とポツダム広場の中間地点に石碑の広場がある。

石碑の広場

石碑の広場

石碑の広場(シュテーレンフェルト)は、2003年に着工し2005年5月に一般公開した施設である(図5)。この石碑の広場は、ホロコースト(第二次世界大戦時にヨーロッパでおきたユダヤ人虐殺)を記憶にとどめるため、殺害されたユダヤ人に捧げられたものである。この建設は、1988年〜1989年にジャーナリストのレア・ロッシュが「見過されることなき警告の記念碑」の建設を呼びかけたことから実現した施設である。
 この石碑の広場、広さは1万9073平方メートルで、水のない池の様な構造になっていて中央部は3mほどの深さがある。その広場には2711基のコンクリートでできた石柱がグリッド状に設置され、とても不思議な空間を演出している。石柱は、横2380mm、奥行き950mmで、高さはそれぞれ異なる。周辺には厚みのないものや低いものが設置され、中央部に行く程高くなり、最も高い石柱は4.7mもある。
 周辺部の低い石碑はベンチのように腰掛けたり上ったりできる。何の予備知識なく訪れた広場であったので、児童公園の遊具のつもりで石碑の上を次々とジャンプし移動していたら監視員に注意を受けた。中央部に行けば危険になるからもっともである。中央部では巨大な石柱に囲まれ巨大迷路に入ったような感覚に襲われる。とても不思議な空間である。
 この石碑の広場には、施設名の表示や案内はなく、市街地の公園のように設置され、フェンス等もなく24時間公開されている。また、そのためか24時間監視員が配備されているようだ。
 設計は、2度の公開コンペの末、アメリカのポストモダン建築家ピーター・アイゼンマン(Peter Eisenman、1932年生まれ)が行っている。
 石碑の広場の南東の地下に情報センターを設けている。情報センターは、石碑の広場と同じように独自の表現で、犠牲者や虐殺の現場や現在ある各記念施設に関する情報を提供している施設である。しかし、今回は情報センターの存在に気がつかなくて見学していない。
http://www.stiftung-denkmal.de/

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上から
上空からの石碑の広場

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木村浩(2005年)

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