1.はじめに

 情報を全世界化するインターネットの発展に伴い、中国のWTO(世界貿易機関)加入の意味は、中国が現代国際社会に足を踏み入れようとしていることを示している。市場経済の国際化が前提となると、国際社会の一員として、国際交流と異文化理解の受容は必須となることだろう。

 このような状況下で、現在、中国において大学の美術学部中国画専攻の人々や中国画界では、岩絵具を使った現代重彩画という表現とその学習がブームになっている。その表現方法と特徴は、あらゆる面で現代日本画の芸術形式観念を直接下地にしている上、重彩画の指導には主に、日本から中国へ訪れた教師や日本での留学経験者が担当している。ある意味、これは異文化要素を含んだ教育であると言える。

 しかし、一方で重彩画には東洋文化の共通的特徴も見られるのである。古代東洋の芸術交流を遡ると、様々な道筋や多様な国の芸術観念が交錯し集成されてきたものであることがわかる。例えば、重彩画が表現技法として最初に出現するのは、インドの仏教壁画であるが、中国と朝鮮(百済)に伝えられ、その後日本に至った。重彩画は古代シルクロード、つまり仏教東漸と同じ道を辿ったのである。

 紀元前2〜1世紀の開削になるインド西部マハーラシュトラ州のアジャンター石窟壁画を代表的様式として、中国新疆の古代亀茲国に伝えられると、キジル壁画の形態に変化し、それから中国甘粛の敦煌壁画とチベットのタンカ(掛軸重彩画)の表現観念に影響を与えた。そして高句麗の古墓壁画を形成した朝鮮を経由し、或いは隋唐時代、日中間の海道を通して日本に伝えられると、奈良時代前期絵画の代表作である法隆寺金堂壁画に、エジプト、インド、中国そして日本の多様な変化形態が表出した。(注1)また、平安時代後期の国風文化時期に、主に扉絵や障壁画、絵巻物の形態で大和絵として出現した。

 古代重彩壁画というこの芸術形式は仏教東漸とともに、東方へ流伝する過程で、東洋の各地域でそれぞれの地域文化と美意識を融合し、各文化の特徴を現出して、表現形式にその特色を表出していった。仏教が日本に伝播されると、神道と渾然一体となった形で完全に日本文化に溶け込み、重彩技法の大和絵様式が、古来日本人の生活の中で使用された扉絵や障壁画のような需要に対して利用され、以来、平安時代から現在まで引き続き用いられている。

 明治維新を契機に、日本の画家たちは西洋絵画を吸収し、大和絵の制作手法と表現を更に深めていった上、「西洋画」と区別する上で、「日本画」という名称が、このような東洋様式の絵画を指すようにもなった。戦後も、西洋絵画の構成、色彩、マチエール、造形観念などの造形要素を大量に摂取したことにより、大幅な発展を遂げた。

 1960年代から、ポストモダン主義の登場に伴い、西洋文化中心の考え方に対する一種の反動から、日本画の表現と教育において、西域文化の特徴を持った中国敦煌の初唐以前の壁画やキジル石窟壁画を初め、中央アジアのトルコ・カッパドキア、インドのアジャンター壁画等の東洋的表現特徴を具有する作品が再びs重要視され、現代日本画の芸術表現に大きな進展をもたらした。現代日本の著名画家平山郁夫とパリ・ギメ国立東洋美術館館長ジャリージュが今日の日本画を話題にして、次のように言っている。「今日の日本画が西洋絵画の影響を受けながらも、日本の伝統的な背景を失わずに成り立っている、……それは、いろいろな理由があるにしても広い意味での仏教文化の近代化に成功したということではないか。」(注2)

注1:戴蕃豫著『中国仏教美術史』p.92-p.98 中国・書目文献出版社 1995
注2:梅忠智編著「平山郁夫、高階秀爾対談日本美術」『日本画と日本画技法』p.24


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